ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

主にゆだねる

 

 イエスは、ご自分の時が来たことを知られ、十字架につけられる前日、ゲッセマネで悲しみもだえて涙とともに父に懇願されました。

 「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯(十字架)をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたの御心のままを、なさってください。」(マルコ14:36)

 

 イエスは、父なる神によって肉体を造られ「人の子」となられて神の契約の民イスラエルに遣わされた、神のひとり子です。

 なぜ、神の御子が人の子にならなければならなかったのでしょう。これは、神のことばが成就するためでした。

 

 ユダヤ暦で言えば、今年は5784年だそうです。アダムの誕生から数えた年数と言われています。最初の人アダムは女から生まれた者ではありません。創造主は、アダムを赤子ではなく、ひとりの人として造られています。

 

 アダムがエデンの園で、蛇の言葉に騙されたエバ(アダムの自分の身から取られた女)にそそのかされて、神に禁じられていた善悪の知識を知る木の実を食べて、罪を食べる罪人となった時、神が警告されたことがアダムの身に起こりました。

 

 アダムは罪の報酬の死を得たのです。神のことば「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」が実現しました。

 神のことばどおり、アダムとエバは、神のおられるエデンの園から追放され、死と滅びが定められている、蛇のかしらである悪魔の支配下に入りました。

 

 神のことばはいのちです。神がいのちであるから、いのちの神から出ることばもまた、いのちです。

 悪魔は神に背き、いのちの神に敵対する滅びの子です。滅びの子は、死を帯びています。死を帯びた悪魔には、いのちがありません。いのちの神と断絶した悪魔には死があります。悪魔は死ですから、いのちがありません。死の悪魔から出る言葉もまた、死です。

 

 蛇のかしらは悪魔です。悪魔の言葉を語る蛇の言葉もまた、死でした。アダムもエバも、神の警告を軽んじて、いのちのことば(神のことば)から外れ、蛇の語る死の言葉と結びついて、滅びの子となってしまったのです。

 

 「神のことば」が人のいのちの根源のようです。母の胎内のへその緒で結ばれた胎児が、へその緒を通して栄養を受け酸素を受けて成長しているように、ことばで、神と繋がっていたのです。

 へその緒から栄養や酸素が送られて来なければ、胎児は死んでしまいます。アダムは、へその緒である神のことばから自ら外れて、いのちを失ったのでした。

 

 神の警告どおり、善悪の知識の木の実を食べたアダムは、死ぬ者となりました。神の霊は、永遠に人のうちに留まることがなくなったのです。人は肉にすぎないからです。肉は、いのちの神(創造主)から離れたので、永遠に生きられません。時間とともに老化し朽ちて行き、腐り、やがて土に還ります。土から取られた人は、土に還ります。

 

 人は、神が神のひとり子とともに、神の御子のために造られました。神は、御子のために、人を悪魔から取り戻すことを宣言されました。これは、蛇のかしら(悪魔)への神の宣告でした。

 

 女の子孫から、蛇の頭の悪魔を踏み砕く勝利のキリスト(罪に落ちた人を死と滅びから救い出し、いのちを与えて創造主のもとに帰らせる救い主)を生み、神のひとり子にすべての支配を与えることを宣言されたのです。

 

 イエス・キリストが来られたのは、実に、創世記に書かれた神のことばの実現のためでした。

 神は、ひとり子に肉体を造り、女から生まれる人の子とされたのです。人の子は、ユダヤ人の処女マリアから産まれたキリスト・イエスです。

 イエスには、キリスト(救世主)の使命がありました。神の子羊として、罪の贖いのために屠られなければなりません。そのために、遣わされていました。

 

 神の子羊が屠られ贖いの血が流されるならば、創造主を侮り自分勝手に生きる被造物に対する神の怒りがなだめられます。また、被造物の罪を神の子羊イエスに負わせることで、神の怒りが被造物の罪を負う神の子羊に向けられ、神の子羊を処罰することで罪の処罰が完成します。処罰された罪は、もはや罪に問われることがありません。

 

 イエスは、神の子羊として、人々の罪の身代わりに処罰されるために来られたのです。十字架につけられて罪人として処罰されることは、キリストが負わなければならない重荷(キリストに定められた重荷)なのです。

 

 いよいよ、その日が目前に近づきました。イエスは、罪の贖いの神の子羊の任命を受け、神に遣わされて、天からイスラエルに来られています。

 イエスは、神のひとり子であり、肉体を持つ人の子です。肉体のイエスは、生老病死の悩みを持つ被造物と同じ姿です。十字架を目前にして、ほかの人と同じように苦しまれました。しかも、他の人には決して理解できない苦しみです。

 罪を犯していない方(イエス)が、罪に定められてののしられ嘲られ憎まれて、人々(ご自分の民)から死ぬことを望まれ、殺されるのです。それは、神の御前で、彼らの罪が赦されるためです。彼らが、キリストにあって義とされるためです。

 

 ゲッセマネでイエスは、苦しみ悶えられました。

 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」(マタイ26:39)

 もう一度、祈られました。

 「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞ御心のとおりをなさってください。」(マタイ26:42)

 

 ご自分の使命を御存じのイエスが、キリストの荷を負うためにもだえ苦しまれました。神の御子だから、すんなりと痛みも苦しみもなく、キリスト(救世主)になられたのではありません。

 

 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方(父なる神)に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いを献げ、そしてその敬虔(善悪の知識の実を食べず神のことばとひとつとなり、死に至るまで神のことばに忠実に仕え従い通した)ゆえに聞き入れられました。

 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデク(父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司として留まる、平和の王)の位に等しい大祭司(天のまことの聖所で仕えるとこしえの祭司)ととなえられたのです。」(へブル5:7-10)

 

 神の子羊イエスは、痛めつけられ、苦しんだけれども、屠り場に引かれて行く子羊のように、口を開かれませんでした。

 神の子羊イエスを砕いて、痛めることは、神なる主の御心でした。もし彼(イエス)が、自分のいのちを罪過のための生贄とするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主の御心は彼(キリスト・イエス)によって成し遂げられるのです。

 

 苦しみの中で従順を学ばれた神の御子イエスは、神の用意されたキリストの十字架を負い、口を開くことなく、十字架の死に従われました。それゆえ、神は、彼を死から甦らせ、神の御座の右に引き上げられたのです。

 彼が神の御子だからではありません。世に遣わされた時、神のひとり子は人の子だったのです。人と同じ罪人のかたちをしておられたのです。

 

 天に引き上げられるためには、肉に死ななければなりません。また、死に勝利して復活しなければなりません。復活するならば、永遠に生きる霊のからだを着なければなりません。

 

 「どうぞ父の御心のとおりをなさってください。」と祈られたイエスは、父の御心に従順に従って十字架につけられ、十字架上で大声で叫ばれました。

 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)こう言って、息を引き取られました。

 

 キリストは、主(父なる神)の御心を成し遂げられました。主の御心は、神の子羊キリスト・イエスによって成し遂げられました。

 

 「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、裁くようなことはせず、『主があなたを戒めてくださるように。』と言いました。」(ユダの手紙9)

 

 天のものは、善悪の知識の木の実を食べないものです。天には悪はありません。天には善しかありません。善いお方(主)がおられるだけです。主(父なる神)が善であり、主のことばがすべての測りです。神以外の測りはありません。

 

 主のことばが天の知識であり、主の御心がただ一つの法なのです。天に属するものは、主にゆだねます。

 

 神の子羊イエスは、天に属する者としてイスラエルを歩まれました。神の民イスラエルに、天の法を教えられたのです。

 主を仰ぎ、主の御心を第一としてすべてを主にゆだねることを、ご自分の身によって教えられました。イエスは、ご自分の生き方によって、天の御国を現わされたのです。