ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

人は何故生きるのか

 

 創造主であられる神は、天と地と海を造り、そこに住む生きものを造られご覧になって、それを良しとされました。そして、仰せられました。

 「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」(創世記1:26)

 

 「われわれ」とは、天地万物を創造された天の神のことです。いのちであり、栄光の光であられる生けるまことの神、唯一の神です。

 偉大なる父なる神と、父に従順な神の御子(神のひとり子)と、聖霊(聖なる御霊)です。神は、われわれに似るように、われわれのかたちに、と人を造られました。人は、神が造られたすべてのもの(すべての被造物)を支配する者として造られたのでした。

 

 人には神と会話する能力があり、思いを巡らし創造する能力、神から受ける知識と知恵、喜びや感動する心、味わう力、父なる神を主とする愛と調和、主権者であられる神の中ですべてのものを支配する能力が備えられました。土の塵から造られた人は、神のいのちの息を鼻から吹き込まれて生きものとなりました。

 

 人は、神に似せて造られましたが、神のような霊の存在ではありません。土の塵から造られたからだがありました。土のからだの中に入った霊でした。

 

 土には霊に反する肉の性質があります。人は肉の弱さを持った霊的存在でした。霊はきよくても、からだは塵からできています。

 

 最初の人アダムが神のことばに背き、蛇の語る悪魔の言葉に聞き従ったとき、人の霊に悪魔の汚れが混じりました。きよい霊にしみができました。それで、人の霊は、土のからだにふさわしい肉の性質を帯びたのでした。

 

 神に背き、罪に落ちた人は、からだも霊も汚れました。神の聖にふさわしいエデンの園にふさわしくない者となり、エデンの園から追放されました。

 

 エデンの園から追放された人は、からだも霊も死ぬ者となりました。神は霊です。人の霊が死ぬと、霊なる神との交信が途絶えます。人は、目に見えない神の存在がわからなくなりました。

 

 霊の目も、霊の耳も塞がれました。神の光を失ったからです。霊が暗くなった人は、思いも暗くなり、肉の目で見えるもの、肉の耳に聞こえるものを頼みとし、自分の霊の置き所を捜しました。

 

 神に似せて造られた人には、永遠への思いが備わっています。

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見極めることができない。」(伝道者3:11)

 

 永遠への思いを宿す人は、遠い未来を思い描きます。また、自分のルーツに心を寄せます。人間の存在が一時的なものではなく、永遠に繋がっていることを感じているからです。

 

 猫や犬や生き物の中に、人間のような心を持つものがいるように、人間の中に、神の思いを持つ者もいるのです。それぞれの世代にそのような人がいたのでしょう。そのような人たちによって、肉の目と肉の耳と肉の思いで生きる人々の中で、目に見えない絶対的存在は捜し求められました。

 

 エデンの園で神と会話していたアダムとエバでさえ、生ける神の記憶を守り生きていたとは思われません。目に見える現象に翻弄されていたことでしょう。

 

 アダムの息子アベルは、神を敬う正しい人でした。しかし、神がアベルに目を留められたことを妬んだ兄カインによって殺されました。

 アダムの息子セツの子孫に、神とともに歩んだエノクが生まれました。信仰によって、エノクは死を見ることのないように移された、とへブル11:5に書いてあります。神がエノクを取られたので、エノクは地上からいなくなりました。

 エノクの子孫に、神とともに歩む正しい人ノアが生まれました。神は、ノアの時代に、水で地を滅ぼされましたが、ノアとノアの家族は神に聞き従って箱舟を造り、洪水の滅びから救い出されました。

 ノアの息子セムの子孫に、神とともに歩むアブラムが生まれました。

 神は、アブラムを「アブラハム」に改め、割礼を命じられました。アブラハムと契約を結ぶためでした。

 神は、アブラハムの妻サライの名前を「サラ」に改めました。サラは、割礼のしるしのあるアブラハムの子イサクをもうけ、イサクをアブラハムの契約と祝福を受け継ぐ子孫とされました。イサクはヤコブを生みました。

 神は、ヤコブを選び、ヤコブを「イスラエル」に改めて、アブラハムの契約と祝福を受け継ぐアブラハムの子孫とされました。

 神は、ヤコブの十二人の息子の子孫と契約を結び、彼らに神の律法を与えて、彼らを神の民イスラエルとされました。

 イスラエルは、神の契約に基づいて、アブラハムに与えると約束されたカナンの地を所有し、その土地に、イスラエル国家を建てました。

 神は、イスラエルにダビデ王を立てて、ダビデの子ソロモン王がイスラエル王国を確立しました。ソロモン王は、アブラハム、イサク、ヤコブの神、父ダビデ王の神のために、神殿を建てました。生けるまことの神の神殿です。

 神は、イスラエルに神のことば(聖書)をお与えになり、イスラエルに神の御計画を語り、イスラエルを神の祭司の国民とされたのです。

 神は、祭司の国民に、世の罪を取り除く神の子羊(神のひとり子イエス)を遣わし、祭司の国民ユダヤ人は、神の子羊イエスを木にかけて屠り、罪の贖いを成し遂げました。

 

 神の子羊イエス・キリストの贖いの血は、神の御心を満足させ、神は、人の罪を赦し、神の子羊の贖いを受ける者(神のひとり子イエス・キリストを信じる者)を義とされます。罪を悔い改め、水の洗い(水のバプテスマ)をもって神に立ち返り、神の御子イエス・キリストへの信仰によって生きる者とされるのです。

 神に義とされた者は、キリストが授ける聖霊のバプテスマによって真理の御霊を受け、御霊によって教えられ導かれて、肉なるものから霊なるものへと造り変えられていきます。

 

 土の塵で造られいのちの息を吹き込まれて生きた者となった人は、神の御子イエス・キリストの御名によって与えられる御霊により新しく生まれ、生かす御霊によって永遠に生きる者とされます。

 肉によって女(母)から生まれた人が、御霊によって新しく生まれ、永遠のいのちを得て神の子どもに造り変えられるのです。

 

 神はすべてのものを支配させるために、人を造られました。

 すべてのものを永遠に支配するために、贖われた人は、肉のからだを脱いで、新しい霊のからだを受け、神のこどもに造り変えられます。肉を殺し、御霊によって生きる者とされるのです。

 

 人は生まれながらの原罪を持ちながら、何故、生まれ続けるのでしょう。原罪により死が定められているのに、何故、生まれて来るのでしょう。人は、死ぬため、裁きにあうために生まれているのでしょうか。

 

 人は、キリストの生かす御霊を受けて御霊による新しい創造を施され、霊のからだを得て神の子どもとなるために生まれているのです。

 

 人は目標なく、むなしく生まれてはいません。神が神の御子キリストにあって授けられる生かす御霊により新しく造り変えられて、天の御国に入り永遠の安息を得る神の子どもとされるために、神の憐みと忍耐によって生かされているのです。

 

 人は、神の信仰と希望と愛によって生きています。

 神の信仰とは、神のひとり子イエス・キリストを信じる者を義とし、彼に神の子どもとされる特権を与えること。

 神の希望とは、義とされた者に、キリストの御霊(生かす御霊)を授けて、新しい創造を施し、永遠のいのちを得させること。

 神の愛とは、いのちがけで愛してくださる神の御子キリストを信じて自分の罪を悔い改めた者に、生かす御霊を授け、御霊によって新しく生み、新しく造り変えた神の子どもを神のみもとに帰らせ、天の御国を相続させること。

 

 私たちは、神の愛によって生きているのです。地上で生きているのは、神の子どもに造り変えられる新しい創造を受けるためにほかなりません。

 神は、死の定まっている人を、肉の人から霊の人に造り変えて生かし、天の御国に入れて永遠に生きる神の子どもに創造したいのです。

 死ぬべき人(生まれながら死と死後の裁きが定められている罪人)は、神の用意された新しい創造を受ける者として地上に生まれ、今、生きているのです。

 

 神の御子イエス・キリストは言われます。

 「わたしの父の御心は、子(イエス・キリスト)を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

 わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日に甦らせます。」(ヨハネ6:40)