ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

救世主は自分に関係あるの?

 

 イスラエルは、神が御自身のために地上に造られた民族です。生けるまことの神を知らせ、神に仕える神の祭司の国民として立てられた唯一の民族です。聖書は、神の民イスラエルに与えられた神のことばです。

 

 地上には悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった神は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められました。

 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていました。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからです。

 

 ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、神とともに歩む全き人でした。神は、大洪水を起こして地を滅ぼす御計画をノアに打ち明け、箱舟を造ることを命じられました。

 ノアとその家族は、雨の降らない地でおよそ70年をかけて箱舟を完成しました。とても、雨が降るようには思えません。しかし、ノアたちは神に命じられたまま、箱舟を造り続けて完成したのです。

 

 ノアは、すべて主なる神が命じられたとおりにしました。ノアたちが箱舟に入ると、神御自身が、ノアのうしろの戸を閉ざされました。

 それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こりました。巨大な大いなる水の源が、ことどとく張り裂け、天の水門が開かれ、大雨は、四十日四十夜、地の上に降りました。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、箱舟は地から浮かび上がりました。

 水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂いました。水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべて覆われました。こうして地の上を動いていたすべての肉なるものはすべて死に絶えました。すべての人も死に絶えました。ただノアと、ノアといっしょに箱舟にいたものたちだけが残りました。

 

 神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めました。また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が止められました。水は、しだいに地から引いていき、箱舟は、アララテの山の上に留まりました。

 

 これらの記事は創世記七、八章に記載されています。

 

 水から救われたノアとノアの家族によって、人類は再スタートしました。神が暴虐に満ちた地を水で滅ぼされましたが、水で洗われた地上は再び、人の悪が増大しました。

 

 神は、ノアに誓われました。「わたしはあなたがた(人類)と契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記9:11)

 

 そして、神は、神と地との間の契約のしるしとして、雲の中に虹を立てることを約束されました。

 「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(創世記9:16)

 

 雲の中に虹があるとき、神は、地を一掃したノアの時代の大洪水を思い起こし、また、ノアに誓われた契約を思い起こして、暴虐に満ちた地への怒りを押しとどめられるのです。

 

 「天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どもの裁きと滅びとの日まで、保たれているのです。」(ペテロ第ニ3:5-7)

 

 もはや、大洪水では地を滅ぼされない神ですが、次は、火で焼いて滅ぼすことを定めておられます。火は、肉なるものも悪もすべてを焼き尽くします。肉なるものを悪いものとした悪、悪魔も悪霊どもも罪をも焼き尽くされるのです。

 

 神は、洪水から正しい者(ノア)を救い出すために、ノアに箱舟を造るように命じられました。神のことばに従ったノアとノアの家族は、洪水による滅びから救われました。

 

 火で滅ぼすことを定めておられる神は、正しい者を火の滅びから救い出すために、神のひとり子イエス・キリストを遣わされました。女から生まれる人の子、女の子孫として救い主(キリスト)は来られました。キリストは、世を暴虐で満たし、破滅に導く破壊者である悪魔を踏み砕く「救世主」です。

 

 神は、救世主を地上に遣わすために、正しい人アブラハムと契約を結ばれました。アブラハムは神のことばに聞き従いました。アブラハムは、ノアのように神に忠実なしもべです。

 

 神は、アブラハムと結ばれた契約を、アブラハムの妻サラのひとり子イサクに受け継がせ、イサクの子ヤコブに受け継がせられました。イサクもヤコブも、アブラハムの契約を受け継ぐ、神のしもべでした。彼らはアブラハムの信仰を受け継ぎ、アブラハムの神を恐れる正しい人でした。

 

 神は、ヤコブの十二人の息子たちを十二支族の族長とされ、神に仕える一つの民族(ユダヤ民族)とされました。神は、ユダヤ民族を、アブラハムの契約と祝福を受け継ぐ「アブラハムの子孫」と呼ばれ、アブラハムの神に仕える神の国民とされました。

 神は、ユダヤ民族を、彼らの父ヤコブにお与えになった「イスラエル」の名前で呼ばれます。

 神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に仕える「アブラハムの子孫」ユダヤ民族を「イスラエル」と呼ばれ、御自身を、「イスラエルの神」と名乗られました。

 

 神は、御自分の民イスラエルに神のことば(聖書)を与え、神の律法を与えて神に仕える祭司の国民とされました。神は、火で滅ぼす地上に、祭司の国民を造られたのです。

 神は、祭司の国民に、預言者を立てて神の御計画を知らされました。イスラエルは、神が遣わされるメシア(主キリスト)の存在を知り、メシアを待ち望んでいます。キリストは、ダビデ王の王座にとこしえに着かれるイスラエルの王です。

 

 現在、イスラエル国に、王はいません。しかし、イスラエルは、メシアを迎えて、イスラエル王国となるはずです。神が遣わされるメシア(主キリスト)は、イスラエルの王です。ダビデ王の子ソロモンが確立したイスラエル王国が、再び王(メシア)を迎えて再興されます。

 しかも、そのダビデの王座に着く王は、天から来られるとこしえの王です。永遠に生きておられる神の子(神のひとり子イエス・キリスト)です。

 

 神は、祭司の民イスラエルに、世の罪を取り除く神の子羊(イエス・キリスト)を遣わされました。人の子となられた神のひとり子です。神が火による滅びから正しい人たちを救い出すために用意された、罪の贖いの子羊です。

 祭司の国民は、神の子羊イエスを屠り、罪の贖いの血を流しました。神の御子イエス・キリストの救いの御名を信じる者は、罪の贖いの子羊イエスの血によって罪が赦されます。神が、子羊イエスの贖いの血の効力を信じる者に、キリストの血の御力を現わされるからです。

 

 イスラエルが奴隷の家エジプトから連れ出されるとき、神のことばに従って家のかもいと門柱に羊の血を塗ったイスラエル人の家は、わざわいが過ぎ越されました。神に義とされたのです。

 それと同様に、神は、神の子羊イエス・キリストを信じる者に、キリストの贖いの血を覆い、義とされるのです。

 

 この救いは、神の民イスラエルだけのものではありません。イスラエルは、神の祭司の国民です。神の祭司の国民が流した神の子羊の罪の贖いの血は、地上のすべての民族の罪の贖いのためであり、地上のすべての民族の祝福のためであり、唯一まことの生ける神が、全地に備えられた御救いです。

 

 地上に住むすべての人にとって、神の子羊キリスト・イエスは、火の滅びから救い出してくださる救世主です。イスラエルが生んだ世の救い主キリストです。

 聖書の民にも、聖書を知らない民にも、割礼の民(ユダヤ人)にも、無割礼の民(異邦人)にも、神が遣わされた、世の罪と罪の滅びと、世の滅びと永遠の死から救い出すメシアです。

 

 何故、救世主が必要でしょうか。罪の世が火で滅ぶことが定まっているからです。罪のある者には、死と裁きが定まっているからです。すべての人は死にます。

 神が遣わされた救世主は、死の定まった罪人を死から救い出し、永遠のいのちを得させ、天の御国を相続する神の子どもに造り変える、いのちの主、まことの救い主なのです。

 

 水で滅ぼされたノアの時代に、箱舟を用意させて、ノアを洪水から救い出された、創造主であられる神は、火で滅ぼされる時代に、神のひとり子キリスト・イエスを遣わし、贖いの子羊の血を与えて、創造主であり裁き主であられる(アブラハムの)神に仕えるアブラハムの子孫ユダヤ人と、アブラハムの神であられる全能の神の、神のひとり子イエス・キリストの御名を崇めるアブラハムの信仰の子孫とを、火の滅びから救い出されるのです。

 

 神は、正しい者を悪い者といっしょに殺し、正しい者を悪い者といっしょに滅ぼし尽くすお方ではありません。

 地上に住む人々は、神の憐れみにより、神のひとり子イエスの贖いの血によって義とされ、イエス・キリストの御名(神の子羊イエスが神の御子キリストであると信じる信仰)によって正しい者とされるのです。

 

 イエス・キリストは、地上に住むすべての民族、すべての人の救い主であり、まさに世を救う救世主です。ユダヤ人だけの救い主(キリスト)ではありません。地上のすべての人のキリストです。

 

 神が天から遣わされた救世主イエス・キリストは、ご自分につく者に永遠のいのちを得させられます。

 「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)