ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の御手のうちにある器

 

 神は、土の塵から人を造られ、いのちの息を吹き込んで生きた者とされました。人は、神が吹き込まれた息によって、生きものとなったのです。

 しかし、神の息によって生きていた人が、神に反逆する悪魔の息を受け入れて、神のいのちの息を消し、死ぬ者となりました。人の霊は、死にました。

 死んだ霊は、死の国に入ります。悪魔が裁かれ永遠に燃える火の池に投げ込まれると、死の国はともに悪魔のいる永遠に燃え盛る火の池に投げ入れられるのです。人々は、永遠の火の池のことを地獄と呼んでいます。

 

 神は、死んだ人を見捨てられませんでした。神は、死者の霊を、生かす御霊によって再び生きた霊とすることがおできになるからです。生かす御霊によって与えられるいのちは、先のいのちとは異なります。

 肉体を生かす命ではなく、霊を生かす永遠のいのちです。死ぬことのない、永遠に生きるいのちです。死なないいのちです。土で造られたからだではなく、永遠に朽ちない霊のからだの中に入る、神のいのちです。神の御霊によって生かされるいのちです。

 

 神のいのちの息が吹き込まれるのではなくて、神の御霊、すなわち、神格を持たれる聖霊がお住まいになられるのです。そのことによって、土の器であった人が、神の御霊を宿す器とされて、神のおられる天の御国に入るのです。

 

 土の器は、肉なる者です。朽ちて土に還る肉なる器は、肉の思いに満ち、肉的なことをもっぱら考えます。肉の思いは神に対して反抗するものであり、神の律法に服従できません。肉の思いは死です。いのちを生むものはありません。

 良い心掛けであっても利害が生じると肉欲にあおられて、妬みと怒りと憎しみが伴い争いに発展したり、人々の賞賛によって自己顕示欲が成長し高慢となり、神からますます遠くに離れてしまいます。肉にある者は、神を喜ばせることができません。

 

 土の器は、罪と死の原理に支配されているのです。原理ですから、罪と死から逃れることはできません。罪と死が定まっているのです。

 人は、母の胎から出てオギャーと生まれたと思ったら、すでに、死が定まっているのです。命の期限までに、神に立ち返り、神の御手に入る器となるかどうかの試みを受ける人生が始まります。

 

 神は土の器の中から、神のものを選び分けられます。最初に、信仰の人アブラハムが選ばれました。アブラハムは、神のことばを聞き、神のことばを信じて従う信仰の人でした。聖書の無い時代です。アブラハムは、文字によってではなくて、霊とまことをもって神に出会い、神からことばを受け、神を信じて神のことばに聞き従った信仰の人でした。

 

 神はアブラハムに、アブラハムの子孫にカナンの地を所有させて、地上のすべての民族の祝福となることを約束されました。そして、アブラハムの子孫の神となることを約束して契約を結ばれました。

 その契約のしるしが、アブラハムから始まった、肉の割礼でした。神の祝福が約束された者のしるしでした。

 

 地上のすべての民族の祝福となると約束されたアブラハムの子孫のしるしは、四百年間の外国の地での奴隷生活でした。アブラハムと妻サラのひとり子イサクの子、ヤコブとヤコブの子孫によって成就しました。ヤコブの子孫が、アブラハムの神の契約と祝福を受け継ぐ、アブラハムの子孫です。

 

 ヤコブの子孫は、神がアブラハムに、「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」(創世記17:8)と仰せられた子孫でした。

 

 ヤコブは神と戦い、「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません。」と言って、離しませんでした。すると、その人は言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)

 

 ヤコブは、双子の兄エサウから長子の権利と、祖父アブラハムの契約と祝福を勝ち取っていました。ヤコブは、人(エサウ)と戦って勝ち、神と戦ってアブラハムの契約と祝福を勝ち取ったのでした。

 

 ヤコブは、神から「イスラエル」という新しい名前をいただきました。アブラハムの契約と祝福を勝ち取ったのは、イスラエルです。

 イスラエルが、「わたしは、あなたの神となる。」(創世記17:8)とアブラハムの神が仰せられた、アブラハムの子孫です。

 

 ヤコブの子らは、イスラエルと呼ばれました。

 神はイスラエルに仰せられました。

 「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:5、6)

 

 イスラエルの民はみな口をそろえて、答えました。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」(出エジプト19:8)

 神は、イスラエルに神の律法をお与えになって、宝の民とされました。そして、御自身をイスラエルの神と名乗られたのでした。

 

 イスラエルは、全世界にあって、神の宝の民です。イスラエルを害することは、神の宝を害することです。神の宝を害することは、聖なる神を侮ることであり、神の聖を汚すことです。

 

 申命記32:10に、「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼(イスラエル)を見つけ、これを抱き、世話をして、御自分の瞳のように、これを守られた。」とあります。

 

 ゼカリヤ2:8,9に、「あなたがた(イスラエル)に触れる者は、わたし(神)の瞳に触れる者だ。見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。」とあります。

 

 神が国々に相続地を持たせられたことが、聖書に書かれています。

 「いと高き方(天地万物を造られた全能の神)が、国々に、相続地を持たせ、人の子らを、振り当てられたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、国々の境を決められた。主の割り当て分は御自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。」(申命記32:8,9)

 

 全世界はおひとりの神のものです。そして、神が御自分の瞳のように守っておられる宝の民は、イスラエルです。神は、イスラエルの子らの数にしたがって、国々の境を決められたようです。どの国にもイスラエルの子が分布しているのでしょうか。失われた十支族と呼ばれる人々のことでしょうか。

 全世界は神のものですが、主の割り当て分は、イスラエルであると仰せられます。アブラハム、イサク、ヤコブの血肉の子孫が、主の相続地、神の家なのです。この中には、後に、神のひとり子キリスト・イエスにより神の子どもとされる人々も含まれているのかも知れません。

 

 イスラエルは、他の土の器とは異なります。神の御手の中にある器です。神によって造り変えられる器です。土の器から霊の器へと、肉の器から御霊の器に造り変えられる時を持っている器です。

 

 イスラエルが生んだ神の御子キリスト・イエスを信じて神に立ち返る異邦人もまた、神の御手のうちにある器です。御霊に新しく造り変えられて、土の器から御霊の器に創造されるのです。御霊に従って歩む者は、御霊に属することをひたすら考えます。御霊による思いは、いのちと平安です。

 

 キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、死の定まっていた罪と死の原理から、解放してくださいました。いのちの御霊の原理とは、イエス・キリストの御名による聖霊のバプテスマを受けた者は、神の御霊がうちに住まれ、生かす御霊はその人の霊を生かして死ぬべきからだをも生かしてくださるという定めです。

 

 ユダヤ人も異邦人も、御霊によって神を、「アバ、父。」と呼び、一つの御霊において、父(神)のみもとに近づくことができるのです。

 

 私たちは、神の慈愛、神の御子キリスト・イエスにおいて賜る慈愛、すなわち、キリスト・イエスにおいて罪が赦され、キリスト・イエスにおいてともに甦らせてくださるという恵みの御救いによって、天の御国に入る神の子どもとされるのです。

 

 「私たちは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 私たちは、神の作品であって、良い行ないをさせるためにキリスト・イエスにあって、生かす御霊によって造られたのです。」(エペソ2:8-10)

 

 神の御手のうちにある器は、神の作品です。神は、御自身の御手のうちの器を御霊によって完成させられます。御霊の新しく造り変えられる器は、神の栄光を現わす神の作品なのです。

 

 神の御手のうちにある神の作品を祝福する者は、神に祝福され、神の作品を汚し呪う者は、神に呪われるのです。