ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

救世主メシアは油注がれたキリスト

 

 「メシア」と聞くと、どんなイメージを持つでしょうか。

 ユダヤ民族は、イスラエルの神がユダヤ民族に約束してくださったメシアを待ち望んでいます。

 ユダヤ人のメシアは、ユダヤ人すべてを救ってくださる救い主です。すべての敵から救い出し、この世の闇から救い出し、永遠の安息を与えてくださる、平和の主です。

 永遠の安息ですから、メシアは、永遠に生きられる主です。メシアは死ぬことがありません。

 

 メシアの契約の無い民族の人々の考えるメシアとは次元が違います。神を知らない人々は、苦しみや悩みから解放し自由にしてくださる救い主を想像するかも知れません。

 仏陀のように生老病死の悩みからの解放を求める人や、人間の存在そのものからの自由や生きる意味や目的を探究するような人でしたら、だれもが納得する真理を明確にして進むべき道に導く全き人を救い主、そして、普遍の真理を救いと捉えるのかも知れません。

 

 そもそも、救世主という発想は、ユダヤ人が書いた聖書から得たものだと思われます。ほかの民族は、救世主よりも、救ってくださる神、絶対的存在を求めていたことでしょう。

 

 ユダヤ人には、イスラエルの神と名乗られる神がおられます。

 ユダヤ人の方からイスラエルの神に救世主を求めたのではありません。苦しみから救い出してくれる救い主を求めたでしょうが、救世主という発想は、神からいただいたものでした。

 イスラエルの神は御自分の民イスラエルに守るべき掟を与えて、人間は神の法を守ることのできない不完全な者であることを知らされました。

 

 神は、イスラエルに、神の掟を守らない者は死に値する者として滅ぼすと仰せられました。実際、神は、不信仰な者や言い逆らうユダヤ人たちを惜しむことなく、イスラエル人たちの間で滅ぼし絶やされました。

 

 神は、イスラエルに神の御業と偉大な御力を現わされただけではなく、裁きの厳しさも現わされました。

 神は、イスラエルに、神の祝福と呪いの両方を体験させられました。イスラエルの神だけが神であること、また、地を滅ぼし、人間をさばく裁き主であることを、イスラエルに知らされたのです。

 

 イスラエルの神が、イスラエルにメシアを遣わすと約束されました。

 それは、ユダヤ民族のユダ族から出る、「ダビデの子」と呼ばれるとこしえの王です。また、モーセのように、神のことばを語り、イスラエルの民を導く預言者です。そして、メルキゼデクに等しいと言われる、神の御前に立つとこしえの大祭司です。

 

 メシアは、「とこしえ」なのです。永遠に生きる者です。永遠に生きるのですから、人間のような肉体ではありません。

 イスラエルが待ち望んでいるメシアは、この世のものではないのです。神に造られしすべてのものの上に立つ、永遠のお方です。

 

 神の訓練によって、イスラエルは、神が聖なるお方であって、裁き主であることを教えられた民です。

 

 「主はモーセに告げて仰せられた。

 『イスラエル人の全会衆に告げて言え。

 あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。』」(レビ記19:2)

 

 神は、イスラエルを聖なるものとするために、守るべき律法をお与えになりました。

 しかし、律法なしに生きていたユダヤ人に、神の戒めが来たとき、罪が意識されるようになって、ユダヤ人の意識の中で罪が生き、自分が罪人であることを自覚せずにはいられなくなりました。

 戒めによって罪が明らかとなり、戒めによって違反を恐れ、戒めによって人は死にました。

 

 ユダヤ民族以外の民族は、聖なる神の外にいて、神の律法に対して自由に振る舞っていますが、ユダヤ人は、裁き主の存在を知らされて、罪の裁きに怯える囚人のようです。

 

 使徒パウロは言っています。パウロはかつて厳格なユダヤ教徒でした。

 「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)

 

 肉体のある間は、聖なる神に逆らう本能に翻弄されます。人は、聖なる者になりたいと願う自分の中に、からだの中にある罪の律法のとりことされる自分を見いだすのです。

 心の律法(目指すもの)と異なる律法(肉の欲求)が自分のからだの中にあって、罪の意識にさいなまれるのです。

 

 これは、聖くなりたいという正しい心を持つ者の、究極の悩みです。その闇(暗い心)を意識しながら生きることは、弔いのようです。心には晴れやかさがありません。

 

 神の律法を知るイスラエルに、神が与えると約束されたメシアは、このような死んだ者を生かしてくださる、メシアです。

 

 神は、イスラエルにメシアを与えると約束されました。律法の下でうめくユダヤ人の乾き切った霊を生かす救世主です。罪からの解放を与えてくださる救い主です。このメシアが来てくださるならば、罪の呪いや死を恐れなくてよいのです。

 

 異邦人が考えている救世主とは次元が違います。メシアがいなければ、死んでしまうのです。裁き主の存在を知る者には、メシアは究極の救いであり、唯一の希望の光です。

 

 イスラエルの神がユダヤ人に約束されたメシアは、ユダヤ民族を救ってくださるお方です。個人ではありません。律法を知り、律法の呪い(さばき)に苦しむユダヤ人すべての救いが約束されているのです。

 

 神がユダヤ民族に約束されたメシアは、罪を取り除く神の子羊でした。肉体を持って来られた神のひとり子でした。

 子羊イエスは、神に油注がれたキリストです。

 

 モーセには、預言者の油が注がれていました。神が、モーセを預言者としてイスラエルに遣わされました。

 大祭司アロンには、大祭司の油が注がれていました。神が、アロンをイスラエルの大祭司として遣わされました。

 イスラエルの王ダビデには、王の油が注がれていました。神が、ダビデに王の油を注ぎイスラエルの王として立たされました。

 油が注がれるとは、神が遣わし、神御自身が立たせた者である、ということです。

 

 神が遣わされた神の子羊キリストには、預言者の油と祭司の油と王の油の三つの油が注がれていました。三つの油が注がれた者が、キリスト(油注がれた者)なのです。

 神に三つの油を注がれたキリストが、イスラエルに約束されたメシアです。

 

 神の子羊は、世の罪を取り除く、罪の贖いの子羊でした。神は、神の子羊を屠らせなさいました。十字架で流された神の子羊イエスの血は、イスラエルの罪を贖いました。

 神の子羊イエスが、イスラエルの罪の身代わりに死んでくださったのです。神は、子羊イエスの血によって、イスラエルの罪、律法の違反も、背きの罪も、不信仰の罪も赦してくださいました。

 

 イエス・キリストの血によって、イスラエルは聖いのです。

 神の子羊イエスの贖いの血を信じて受け取れば、神は、イスラエルの罪を赦し、すべての律法を守った者のようにイスラエルを義としてくださるのです。

 

 神の子羊イエスは、神のことばを語り神のことばを成し遂げる預言者の油、天の聖所に入り神に執り成すとこしえの大祭司の油、神が約束された平和な世界を治められるとこしえのイスラエルの王の油を受けたキリストだからです。

 

 神は、十字架で屠られ墓に葬られた子羊イエスを三日目に甦らせられました。復活のキリスト・イエスは、イエスの弟子たちにお会いになられ、弟子たちが見ている間に、天に上がられたのです。

 キリストは、神の御座の右に着座され、とこしえの祭司として、イスラエルのために執り成し、まことの聖所で仕えておられます。

 

 「この方(神の御子イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名(イエス・キリストの御名)のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

 

 ダビデの町ベツレヘムで、ダビデの系図に住民登録されたナザレのイエスが、十字架でイスラエルの罪を贖う贖いの血を流してイスラエルを義とし、墓から甦られた永遠に生きるキリストなのです。

 

 神の民イスラエルが神から受けたキリストによって、異邦人たちは、救いの希望を得たのです。キリストは、罪を赦し、永遠のいのちを得させてくださる救世主です。

 

 世の終わりに、ユダヤ人たちが「主よ、来てください。」と呼び求めると、イスラエルのメシアが天の軍勢とともにやって来て、地を荒らす者たちをすべて滅ぼされます。

 救いはユダヤ人から出ます。

 神の御救いは、イスラエルとともにあるのです。