ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

生まれながらの人 贖われた人

 

 「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(テモテ第一1:15)

 

 「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)

 人は生まれて来ると、必ず死にます。生まれて来た人は、必ず死ぬのです。

 「死は、罪の報酬である。」と神のことばである聖書は言います。逆説的に考えてみると、死ぬ人はみな、罪を犯しているということが言えます。つまり、人は生まれながら罪人のようです。

 

 だれに罪を犯したのでしょうか。人は、人をお造りになられた神に対して、罪ある者のようです。オギャアと産声を上げる前から、また、母の胎内に骨骨が組み立てられる前から、はたまた、生を受ける前から、神に対して罪を犯した者であったようです。肉体に霊が宿る前から、罪ある魂として存在していたようです。

 

 罪のない状態とはどのようなありさまでしょうか。神を賛美する天使のような状態です。神のもとにいる天使たちは、神の御顔を拝し、神を崇め、霊なる生ける神を常に賛美しています。

 人は空気を吸って呼吸し生きています。天使たちは賛美によって呼吸しているかのようです。彼らにとって、賛美は喜びであり、永遠です。

 

 神の息によって生きた者とされた「人」もまた、感謝と喜びと神を讃えることが彼ら(人)のいのちの糧だったのでしょう。

 しかし、人は、神の命令に背き、神に反逆する悪魔の偽りの言葉に耳を傾け、偽りの言葉を愛し、偽りの言葉に聞き従う者となりました。

 

 人は、神のことばに背き、主である聖なる神に背を向けて、神に敵対する悪魔を自分の従うべき主人としたのでした。人は、神に従うことを望まず、悪魔に従うことを選んだのです。光よりも闇を愛しました。真理よりも偽りを愛したのです。

 

 神の御座のある天は、光の世界です。混ざり物のない真理の光です。闇を愛する者が生きる場所ではありません。偽りを愛する者が留まる場所ではありません。

 神は、神に背く天使長を天から追放されたように、偽りを愛する人をエデンの園から追放されました。

 

 エデンの園から追放された人は、いのちの木から遠ざけられました。彼らに罪が認められ、闇に落ちたからです。

 人は、罪ある女(母)から生まれ、罪人として生き、罪ある子どもを生み、罪人として死んでいきます。光から追放された人は、罪人の系図を繋いでいるのです。最初の人アダムとエバの罪を受け継いでいます。

 

 すべての人は、生まれながら罪ある者ですから、誰一人、罪の報酬である死から逃れることのできる者はいません。生まれて来た人はみな、死ぬのです。

 

 神は愛です。神は、御自身の愛と憐れみにより、闇にいる人々に光を照らされました。望みなく、死の淵で嘆き悲しむ人々に、真理の光(永遠のいのち)を輝かされたのです。

 人を造られた創造主であられる神は、罪の中で死んでいく罪人を救うために、御自身のひとり子を世に遣わされました。

 神は、御自分のひとり子(神の御子)に罪を負わせられました。罪を贖う神の子羊キリスト・イエスを屠って人々の罪を赦すために、御自身のひとり子に肉体を造り、ひとり子を「人の子」として世に遣わされました。

 

 神のひとり子キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られました。

 神への賛美を失った人々に、神への賛美を取り戻すため、永遠のいのちを得させるために、真理の光(神のひとり子キリスト)は来られました。

 罪が、神への賛美を妨げています。罪は、神をわからなくさせているのです。罪は人の思いを暗くし、霊の目を閉ざして真理の光を見られなくしているのです。また、霊の耳を塞いで神の御声を聞けなくしているのです。

 

 イエスは言われました。

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31,32)

 

 イエスは、闇の中でうめき苦しむ者、自分の罪に打ちひしがれて悲しむ者、この世の悪に打ち負かされて嘆く者、この世の隅に追いやられ傷ついている者たちのところに来られます。足のともしび(神のことば)を携え、真理の光(永遠のいのち)を与えるために来られました。

 

 神が罪人たちに用意されたものは、この世のものではありません。

 「(人の)目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(コリント第一2:9)

 

 預言者イザヤは言います。

 「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。

 私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行なわれるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。

 神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた(聖書の神)以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」(イザヤ64:1-4)

 

 罪人を救うために世に来られた神の御子イエス・キリストは、神の御霊を与え、御霊によって私たちに啓示してくださいます。神の御心のことは、神の御霊のほかにはだれも知らないからです。

 イエス・キリストを信じた私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったもの(父なる神と「アバ、父。」と呼ぶ神の子どもとしてくださる御霊と永遠のいのちと天の御国)を、私たちが知るためです。(コリント第一2:10-12)

 

 しかし、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは生まれながらの人間には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(コリント第一2:14)

 

 「神から私たちに賜った賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」(コリント第一2:13)

 

 御霊を受けている新しい創造の人(神の御霊によって新しく造り変えられた人)は、すべてのことをわきまえますが、生まれながらの肉の自分はだれによってもわきまえられません。

 「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神に献げなさい。」(ローマ6:12,13)

 

 「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:10,11)

 

 人は、生まれたままでは死を迎える罪人です。生まれながらの人は、いのちの神から離れた死人です。死の世界から甦る人間はだれもいません。

 人は生まれながらの罪人です。神?神は本当にいるのか?神を見せてみろ!と思うのは、神から離れている証拠です。神から離れている人間が神のみもとに帰ることはありません。神がわからないなら、その人は闇の人間です。偽りの光の中で生きているのです。

 偽りの光はまことの光ではありません。死とともに消える光です。その人の魂は闇の中です。その人のいのちは、消えるともしびです。

 

 聖書では、生けるまことの神を神としない者を悪い者(救う価値のない人)と言っています。それは、悪魔の性質を持つ罪です。

 「悪を行なう者に対して腹を立てるな。悪者に対して妬みを起こすな。

 悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。」(箴言24:19,20)

 

 神から離れている者は、栄えていても、やがて草のようにしぼみます。彼らの魂が永遠に置かれる場所は、神に反逆する悪魔のために用意された火の池であることは、変えようのない神の定めです。生まれたままの人間は、罪ある者として生まれ、罪人として死んでいき、永遠の滅びが定められているのです。

 

 キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られました。

 

 生まれながらの人は、神の子羊キリスト・イエスの贖いの血を受けていないので、罪が贖われておらず、罪を持ったままです。自分が罪人であると自覚できなくても、罪の贖われていない罪人です。神に不義とされ、自分の罪の中で消えていきます。

 

 神の子羊キリスト・イエスの贖いの血を受け、神の御子イエス・キリストを信じる者は、罪が赦され神に義とされて、キリストの御霊によって神を賛美する者に造り変えられ、神の子どもに新しく創造されます。

 

 生まれながらの人と罪の贖われた人との間には、永遠に渡ることのできない大きな淵があるのです。

 

 「正しい者(神の子羊キリスト・イエスを信じ罪が贖われて、神の子どもに造り変えられた者)の光(永遠のいのち)は輝き、悪者(神の用意された罪の贖い、神の子羊キリスト・イエスを信じることなく、罪が残ったままの者)のともしび(むなしい希望)は消える。」(箴言13:9)