ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

日本人に与えられた神示

 

 日月神示は、大和魂(いのちを司られる目に見えない神にへりくだり神を恐れ自然と調和する心)に語りかけています。

 聖書のない日本人に、神は、生きたことばを与えてくださいました。

 

 「右の頬を打たれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元じゃと申しているが、その心根をよく洗って見つめよ、それは無抵抗ではないぞ、打たれるようなものを心の中に持っているから打たれるのぞ。まこと(神の中)におれば相手が手を振り上げても打つことはできん。よく聞き分けてくだされよ。笑って来る赤子の無邪気は打たれんであろう、これが無抵抗ぞ。世界一家天下泰平じゃ、左の頬を出す愚かさをやめて下されよ。」

 

 神の御心の中を歩む道を説いています。

 

 「そなたは無抵抗主義が平和の基だと申して、右の頬を打たれたら左の頬を差し出してござるなれど、それは真の無抵抗ではないぞ。よく聞きなされ、打たれるようなものをそなたが持っているからこそ、打たれる結果となるのじゃ。まことに(おのれの身魂を)磨けたら、まことに相手を愛していたならば、打たれるような雰囲気は生まれないのであるぞ。頬を打たれてくださるなよ。生まれ赤子をみよと知らせてあろうが。」

 

 日本人には、よく理解できる内容だと思います。

 しかし、聖書的に言えば、イエスが戦われた、聖霊に敵対する悪魔の存在が考慮されておらず、自分の力では身霊を磨くことができないゆえキリストが真理の御霊を与えくださる、ということに啓示の光が当たっていないですが、言わんとしていることは、よく理解できます。

 

 神道は道であって教えではなく、宗教でもないようです。光の道を伝え、行く所を教えることは、教えです。「教えは教えにすぎん。道でなくては、今度はならんのじゃ。(これからの時代は道でなくてはならない。)」と言っています。

 また、「今までの日本の宗教は日本だけの宗教。この度(神示)は世界のもとの、三千世界の大道だぞ。(世界中の神々の上に立つ唯一の神〈創造主〉に辿り着く道だ。)」「今までの教えではこの道わからんぞ。(真理をめざす信仰の歩みによらなければ見出すことのできない道。御霊によって歩むいのちの道である。)三界(生まれ変わる輪廻)を貫く道ぞ誠なり誠の道は一つなりけり(真理の道は一つしかない)。神界の誠隠れし今までの道は誠の道でないぞや、鬼おろち草木動物虫けらも一つに集まる道ぞ誠ぞ。」と言っています。

 

 聖書を持たない日本人に、神を見ることができず主権者(創造主なる唯一神)が隠された今までの、人間の世界に敷かれた信仰の道ではなく、すべての被造物もまことの神(創造主)を見る世界、すべてのものが完成する神代の世界(聖書で言うところの地上の神の国―千年王国―)に入る道を現わすと言っているのです。

 

 そして、その道は、世界に宣べ伝えられるものであり、仏教徒もキリスト教徒もイスラム教徒もほかの宗教も関係なく宣べ伝えられる神の道です。人は、宗教によって救われるのでなく、生ける神の霊に聞き従って神のしるしがつけられ、神代の世界(この世の終わりの後に現われる神の国)に入ると言っています。

 すなわち、仏教徒であってもこの神の道を行くならば、神道であってもこの道を行くならば、また、キリスト教徒もキリスト教の教えでなくて神の霊に聞き従って生ける神の道を行くならば、すなわち、人はどの宗教に属していても、生ける神の霊(聖霊)に従うならば、その世界に入ると言うのです。

 

 クリスチャンにはわかりづらいですが、わかりやすく聖書的に言えば、聖霊の示されることを信じて御霊に導かれる道を歩むということです。この道は、霊なる神に導かれる道なのです。神は、純真な心で救いを求めるすべての者に、真理の御霊を明らかにされるのでしょう。

 すべての宗教、それぞれの中にいて真理を求める人々に、神の霊が注がれて、それぞれの宗教の聖典の文字を覆い、唯一の創造主の真理の道を示されるということでしょうか。

 

 聖書も私的解釈すれば、神のことばの力を消します。神の霊によって捉えなければなりません。神が見ておられるのは、ことばではなく、力にあるのです。

 「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(コリント第一4:20)

 

 パウロは言います。

 「私(パウロ)のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力(神の力)の現われでした。

 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(コリント第一2:4、5)

 

 「しかし私たちは、(信仰の)成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。

 私たち(パウロたちイエスの弟子)の語るのは、隠された奥義としての神の知恵(人間には隠されており、神にへりくだる者に現わされる真理)であって、それは、神が、私たち(神の御子キリストに仕える人々)の栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。(神の御子イエスを遣わし、救い主である神の御子イエス・キリストによって聖霊(神の霊)を授け、罪人を神の国に入る新しい人に造り変えるということが神によって定められています。)」(コリント第一2:6,7)

 

 神の霊が臨むとき、世の罪を取り除くために十字架に掛かられたあのキリストと呼ばれるイエスが救世主であったと気づくのかもしれません。

 

 知恵のことばは、全知全能の神から与えられるものです。創造主は、神のことばを語る者を立てられます。

 しかし、宗教の霊に汚された者の、霊の目、霊の耳は宗教の霊におおわれて、神の霊が語る真理のことばを受け取ることができません。

 神の道を説く神の霊のことばは、あらゆる宗教の人々のもとに届けられます。しかし、自分たちの信じる宗教から出たことばでなければ、彼らは信じないのです。

 

 救い主であるイエス・キリストは言われます。

 「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神を汚すことを言っても、それはみな赦していただけます。

 しかし、聖霊(神の霊)を汚す者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28,29)

 

 御霊によらなければ、神の霊の語ることばを受け取ることはできません。純真な者は、神から出たことばであることを悟ります。

 「羊は、彼(羊飼い)の声を知っているので、彼について行きます。」(ヨハネ10:4)

 

 キリスト教信者であるから救われるものではないようです。聖書を信じているから救われるものでもないようです。文字のことばでは救われないからです。

 ことば(文字)で救われるのであるなら、律法に熱心なユダヤ人たちは、イエスから叱責されることはなかったでしょう。

 

 「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

 だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。」(マタイ23:33,34)

 

 キリスト教ではなく、神道に救いの道が明らかにされるのかもしれません。神道の方が、生ける神の声を聞くことができるからです。

 

 ユダヤ教徒のユダヤ人ではなく、異邦人に神の御子イエス・キリストの御名による御救いが受け入れられたように、キリスト教徒の日本人ではなく、神道の日本人に、神の霊(聖書でいう真理の御霊)の示される光の道(神の国に入るいのちの道)が受け入れられるのかも知れません。

 

 その神示は言っています。

 「この道は宗教ではないぞ、教会ではないぞ、道だから、今までのような教会作らせんぞ。」

 これから神は、御霊の教会を完成していかれるのです。