ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ユダヤ人の時患難時代に立つふたりの証人

 

 私は、ユダヤ民族の12部族それぞれが、日本の地に入っていると考えるに至りました。その子孫は、ルーツがユダヤ人であることを知らないで、日本人として生きていると思います。神は、アッシリア捕囚、バビロン捕囚から離散したユダヤ人、ローマ帝国によって離散したユダヤ人がどこにいるのかすべてを把握しておられます。

 

 異邦人の時が完成し、ユダヤ人の時がはじまると、ユダヤ人の救いの時となります。

 神の御子イエスはベツレヘムでお生まれになり、ユダヤ人の間を歩まれました。イエスは、選民ユダヤ人たちに、ユダヤ人たちが信じる神、イスラエルの神がご自分(イエス)の父であること、神はイスラエルに天の御国を用意しておられること、神が遣わされた神の子羊イエス・キリストの御名により永遠のいのちが得られることを語られました。

 

 神のひとり子イエスは、イスラエルの神、すなわち父なる神が契約を結ばれたアブラハム、イサク、ヤコブの子孫ユダヤ民族が相続するはずの約束の地、すなわちカナンの地に住んでいる神の民イスラエルのところに来て、福音を語られました。

 

 イスラエルは神の民であり、神の子羊イエスは、イスラエルの罪を贖うためにイスラエルの神に遣わされていました。イエス・キリストは、イスラエルに遣わされました。異邦人の所に遣わされたのではありません。

 

 イエスは言われました。

 「わたし(イエス)は、イスラエルの滅びた羊(ユダヤ人)以外のところには遣わされていません。」(マタイ15:24)

 神の子羊イエスは、父なる神に忠実でした。父の御思いにへりくだり、完全に父に聞き従い通されました。

 

 イエスがお生まれになった次第と、イエスの教えのことばと、イエスのキリスト(救い主)のしるしと、神の子羊イエスの罪の贖いの血による御救いのわざの完了と、そして、聖霊の働きが新約聖書に記されています。

 また、世の終わりに起こることと新しい創造と天の御国について、また裁きについてが新約聖書に書かれています。

 

 ユダヤ民族に与えられた聖書(旧約聖書)は、天地創造から始まって、創造主がイスラエルと契約を結び、イスラエルにメシアを遣わすことが約束されています。

 神は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫イスラエルを神の祭司の国民として立てられ、罪の贖いの神の子羊を遣わすことを約束されました。イスラエルは、世の罪を贖い世の罪を取り除く神の子羊を屠る、祭司の国民なのです。

 

 神には、明確な手順がありました。

 アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を神の民として選び、この世の奴隷(エジプトの奴隷)から連れ出したユダヤ民族と契約を結び、神の民イスラエルに造り変えること。神は、ユダヤ民族と契約を結び、御自身をイスラエルの神と名乗られ、イスラエルに聖書(旧約聖書)を与えられました。

 

 神が選ばれたカナンの地に、神の民イスラエルの国を建国すること。聖書の預言どおり、実現されました。そして、神が定められた神の都エルサレムに、神の神殿が建てられました。

 

 神の民イスラエルを、神の祭司の国民として整えること。幾たびかの懲らしめによって背く民の心を神に立ち返らせて、神の子羊を屠る祭司の国民を造られました。

 

 祭司の国民に造られたイスラエルに、世の罪を取り除く神の子羊を遣わすこと。神の時に、神は神のひとり子に肉体を造って処女の胎に宿らせて人の子として遣わし、御子を罪の贖いの子羊として、十字架で屠らせなさいました。

 

 神の祭司の国民ユダヤ人たちが全世界に出て行って、救世主(神の御子イエス・キリスト)の福音を宣べ伝えさせること。神は、イスラエルに遣わされた神の御子イエスを救い主と信じるユダヤ人(神の御子イエス・キリストの弟子)たちに聖霊を授け、神の御子キリスト・イエスの御救いの福音を異邦人たちにも告げ知らされました。

 

 キリストの福音は全世界に宣べ伝えられて、終わりが来ます。異邦人の救いの時が満ちると、ユダヤ人に残された七年の患難時代を迎えます。ユダヤ人の救いの時です。

 

 ユダヤ人の救いの時は、異邦人の時ではありません。異邦人の救いは完成しています。 

 地上の神の民の救われる時です。神の民とは、人の子イエスの血肉の兄弟、すなわち、イスラエルの神との契約を持つユダヤ民族(血肉のイスラエル)と、神の御子イエス・キリストの御名による新しい契約に入った異邦人のキリスト者(キリスト信仰によりイスラエルに加えられる、信仰による霊のイスラエル)とをさします。

 すなわち、創造主なるアブラハムの神と契約(旧約聖書)を結んだアブラハムの子孫イスラエルと、また、イスラエルの神が遣わされた神の御子イエス・キリストと新しい契約(新約聖書)を結んだ人々、すなわち、天の神の御救いの契約を持つ神の民の救いの時なのです。

 

 神の子羊イエスがイスラエルに遣わされていた時のように、七年間のユダヤ人の時には、契約のない異邦人のところには向かいません。神の民に向かって、語られます。

 

 神は、この時のために、ふたりの証人を立てられます。三年半の間、荒布を着て(神の民に悔い改めを促し)、預言をします。

 

 「彼ら(ふたりの証人)に害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。

 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。」(黙示録11:5,6)

 

 彼らは、奴隷の家エジプトの地で水を血に変えた預言者モーセのように、また、天からの火を下し、三年半の間雨が降らないように祈ると雨が降らなかった預言者エリヤのように、神のしるしをもって、預言活動をします。

 

 ユダヤ人たちは彼らのことばを聞き、しるしを見て、神に立ち返ります。

 

 「彼らがあかしを終える(三年半の時が満ちる)と、底知れぬ所から上って来る獣(悪魔に権威を与えられた獣、すなわちダニエルも預言していた反キリスト)が、彼ら(ふたりの証人)と戦って勝ち、彼らを殺す。

 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主(救い主イエス・キリスト)もその都で十字架につけられたのである。

 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼ら(ふたりの証人)の死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。

 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。

 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼ら(ふたりの証人の死体)にはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。

 そのときふたりは、天から大きな声がして、『ここに上れ。』と言うのを聞いた。そこで、彼ら(生き返ったふたりの証人)は雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。

 そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。」(黙示録11:7-13)

 

 神が許された千二百六十日の期間が満了して、ふたりがあかし(預言)を終えると、悪魔から力を与えられた反キリスト(荒らす忌むべき者)が彼らと戦って勝ち、ふたりの証人を殺します。

 彼らの死体を彼らの主キリスト・イエスが十字架につけられた大通りにさらします。ふたりの証人の語る厳しい預言に苦しめられ、彼らを憎んでいた人々は、彼らの死体を墓に納めることを許さず、三日半の間、ながめていて、彼らが死んだことを喜んだ。また、神の御子イエスを信じず、イエス・キリストを憎む頑ななユダヤ人たちは、彼ら(ユダヤ人)を苦しめる神の裁きのことばを語ったふたりの預言者がいなくなったことで喜び祝います。(世の初めからいのちの書に名の記されていないユダヤ人たちもいるのです。)

 しかし、三日半の後、ふたりの証人の死体に神から出たいのちの息が入り、みなの目の前で、自分の足で立ち上がったので、見ていた人々は恐怖に襲われます。

 そのとき、天から「ここに上れ。」との声があり、ふたりの証人は雲に乗って天に上った。ふたりの証人の死を喜んでいた敵どもは自分たちの目で、ふたりの証人の復活と昇天とを目撃するのです。

 そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、生き残ったユダヤ人たちは、神がふたりの証人とともにおられることを知って、神に不遜だった自分たちの罪を恐れ、天の神をあがめます。

 

 約二千年前、イエスの弟子たちの目の前で神の御子イエス・キリストに起こったことが、終わりの時代のユダヤ人たちの目の前でふたりの証人に起こります。ふたりの証人は、神がユダヤ人の救いのために遣わされた、モーセのような預言者だったのです。

 

 ホピ族では、偉大なる禊の日が近づいたとき、白い兄が世界を清め、平和に導くために戻って来ることが言い伝えられています。

 「白い兄は日出る国からふたりの従者を連れてやって来る。ひとりは卍と十字の紋章を持つ。もうひとりは太陽の紋章を持つ。彼らは世界が終焉を迎えるときに現われ、私たちを平和な世界へ導いてくれる。」

 

 もし日本に、ユダヤ民族の十二部族が隠されているならば、このふたりがどのような人なのかを見ることができます。ふたりとも日本人ですが、ユダヤ人の血統の人です。おそらく、ユダヤ人であることを自覚していないでしょう。

 

 ひとりは卍と十字の紋章を持つ人です。

 卍のマークは、寺院の地図記号の卍。十字のマークは、十字架に掛かられたイエス・キリスト。すなわち、真理を求め続け仏法に生きる人が瞑想のうちに、十字架上のイエス・キリストが阿弥陀のもとに導く仏であることを悟った人と思われます。

 

 私には、仏法により頼む人々は、救いの道を探し求め真理(救い主)を切望する、熱心な求道者(きゅうどうしゃ)のように思えてなりません。神は、霊とまことをもって仏法に仕える人々の中から召されるのではないでしょうか。

 彼が阿弥陀と思っていたのが全知全能の神であり、仏と思っていたのが、ご自分を無にして父なる神に仕えた人の子、すなわち神の子羊イエス・キリストであることを、神が知らされるのではないでしょうか。

 仏という漢字は、人にカタカナのムを並べた字です。おのれに死に無となって、生かしてくださる阿弥陀(神)の本願(御心)に従った人の子は、神の子羊イエスただひとりです。

 完全に肉に死んで、すべてのものを造られた父なる神に、おのれを捨てて十字架に至るまで聞き従われた神の子羊イエスが、仏陀の見た明けの明星であることを悟った人だと思います。

 

 もうひとりは太陽の紋章を持つ人です。

 天照大神(太陽)に表される神道を宗教としてではなく、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、精神を尽くして、目に見えない偉大な神、霊なる神を恐れ、霊とまことをもって神の道を歩み、神から神示を受ける人ではないのかと思います。

 

 これは私の見解です。ふたりとも聖書を持たない日本人(血統はユダヤ人)であり、ふたりの証人は、宗教ではなく、自分自身の霊で、神御自身の啓示により、父なる神と子羊イエスの御名を受け取った仏法の人と、神の霊によって神示を受ける神道の人のように、私は思います。

 

 ふたりの証人は、神がこの時代のために召しておられる人なのでしょう。