ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

日本教と日本人の救い

 

 あるユダヤ人が言いました。

 「日本には日本教しかない。仏教もキリスト教もない。仏教もキリスト教もほかの国とは異なる日本独自のものだ。日本に入って来る宗教は、日本教の中に取り込まれ、日本教仏教派、日本教キリスト派となる。」

 

 私は、その言葉を聞いた時、「その通りだ。」と思いました。日本人には、空気を読むという独自の国民性があります。言葉にしなくても察するというものです。

 

 ある鉄道の駅では混雑を避けるために、電車から降りる人用のホームと乗る人用のホームを別にしています。電車が到着して右側のドアが開くと、まず、電車の中の乗客が右のホームに降ります。それから、左側のドアが開いて、左のホームで電車の到着を待っていた人々が電車に乗り込むという具合です。

 しかし、左側のホームで降りた方が行き先に便利な場合もあり、急いでいる時は、入って来る人のドアから出てしまうこともありました。(現在は禁止のアナウンスが流れています。)

 ある時、入って来ようとした女性が中国人なまりの日本語で、入り口から出て行く日本人を「ば~か。ば~か。」と大声でののしり、乗客が乗り込んだ電車の中でもしきりに喚き散らしていました。

 

 日本人はイラっとしても、そこまでしつこくののしることはないでしょう。入口から出て行った日本人よりも、うるさくわめき散らす中国人の方が迷惑な存在となっているのです。実は、日本人には、日本人同士の隠れたマナーもあるのです。それは、「お互いさま。」という考え方です。入口から出るのは迷惑な話ですが、きっとこちらのホーム側に用事があるのだろうと察するのです。

 

 互いを思いやるという、隠れた国民性が、ユダヤ人の言う日本教に通じるのだと思います。これは、ルールを守る社会が生んだ究極のルールなのだと思います。しかし、ルールを守る習慣のない外国人が多く入ってきたことで、日本人の中にあった互いに生かし合う思いやりの暗黙のルールは押しやられ、律法的なものに変えられてきています。

 

 自動車免許を取得するための自動車学校で、ハンドルの遊びが大切なことを教わりました。遊びの部分がなければ、すぐにタイヤが固定されて、かえって危険なことになります。日本教は、日本人の心に、この遊びの部分を形成してくれているように思います。

 一時、「ファジー」という言葉が流行りました。人の勘のようにきめ細やかな作業を選択して、より人間に近い動きをするファジー家電が出たときは驚いたものです。

 日本人ってこのファジー機能を生まれ持った人種のように思います。「はい。」と「いいえ。」をはっきりさせず曖昧なところに落ち着いたりします。外国人には理解できないようですが、何か、それが居心地よかったりします。そして、社会はスムーズに流れて行くのです。

 

 日本では宗教間の対立が続くということはないように思います。新しい教えが入って来るとしばらくの間は混乱しますが、日本教の中に取り入れて落ち着きます。

 日本人は、宗教ではなく、精神を取り入れる国民性があります。精神性のない宗教は日本人には受け入れられないのです。それゆえ、宗教は孤立します。そして、日本文化に加えられません。

 神道も仏教もキリスト教も、それぞれ尊重しながら何となく、ともに社会生活しています。

 

 古くからの宗教は、神道も仏教も宗教ではなく、日本人の精神の土台にあり、生活の一部のようです。新興宗教は、また別の話になります。なぜならば、新興宗教はお金集めが目立ち、宗教というよりも事業のようであるからです。

 

 日本に古くからあった神概念は神の道(神道)であって宗教ではないからだと思います。日本人の精神を形成し、富む者も貧しい者も、高貴な人も卑しい人も、その心のうちには目に見えないものやお天道さまを恐れる霊的な何かを宿しており、その良心に従うという共通の習慣のようです。親から子へ、子から孫へ受け継がれ、社会から村へ、村から家族へ、と一つの民族とする日本人の暮らしだったのです。

 

 おそらく、ほかの民族と比較した場合、日本民族は、それぞれ一つの宗教の共同体としての民族よりも、もっと自由でかたちの無い広がりがあり、ほかの宗教では神とはみなさない樹木や岩や泉や鳥や植物や虫や動物にさえ、目に見えない存在の働きを感じているのです。

 文明が発達している国の中で、まだこのような原始的で素朴な信仰が残っているという点で、日本は珍しい国なのかもしれません。

 

 ユダヤ教徒は、聖書(旧約聖書)を信じながら、聖書に書かれているメシア(人の子イエス・キリスト)を見ても、神の御子イエスのことばを聞いても、聖書の神が遣わされた主キリストであると信じることができませんでした。預言の成就を肉眼で見ていながら、主キリストを十字架につけて、預言を成就させました。

 神がイスラエルに約束しておられた御救いは、異邦人に及び、異邦人は神の御子イエス・キリストを信じて、永遠のいのちを得る特権を受けました。

 

 キリスト教徒は、新約聖書(神の御子イエス・キリストの言行と預言が書かれた、御救いのための新しい契約)を信じながら、父の約束のもうひとりの助け主(真理の御霊)を受け取っていない人が多いです。

 

 聖書のことば(律法)を信じ、知っていることが完全な信仰とは言えません。

 聖霊のバプテスマを授けるキリストから、御霊を受け、御霊に聞き従うことが、永遠のいのちに続く御救いの道です。聖書のことばをよく知っていても、それが良心をきよめるわけではありません。

 

 人は、御霊によって新しく生まれることで、御霊がうちに住まわれます。御霊が、その人の内側から造り変えていかれるのです。本人の気づかないうちに、御霊の働きによって良心がきよめられていきます。

 肉によって生きていた時には、喜びとは思っていなかった神を賛美することが喜びとなっていきます。また、肉の喜ぶものがむなしく感じるようになり主イエスの御名が慕わしいものとなっていきます。聖書のことばに心が安らぎ励ましを受け、友のように思われます。神に祈ることが生きる支え、生きる糧となっていきます。

 御霊が新しい創造(神の国に入る新しい人に造り変える)を施しておられるからです。喜び(言葉に尽くせない栄えに満ちた喜び)と感謝(御国のメロディー)と賛美(神をほめたたえる楽器〈信者の魂が楽器である〉の演奏)と祈り(神との交わり)は、天の御国に属する性質なのです。

 

 神は、御子イエス・キリストを信じる者のうちに、キリストの道を行くための助け主を遣わされます。真理の御霊です。真理を教え、みことばを思い起こさせ、いのちの道に導く助け主です。

 

 一つの幻を見ました。

 いくつもの白い雪山を下に見ていました。私は、一番高い雪山の上からそれを眺めていたのです。

 雪山は、宗教であると思いました。キリスト教の山が一番高いです。その一番高い山の上から高さがまちまちの一つ一つ独立した山々を見下ろしていました。

 山の高さは、真理の分量なのです。真理の教えが多い宗教はより高い山、真理のことばが少なく人間の教えの宗教は低い山です。

 真理がほとんどない宗教、あるいは真理を捻じ曲げる宗教の、丘よりも低い山は雪がなく、地面のようです。しかし、日本には、真理のことばを教える宗教が、キリスト教のほかにもあるようです。宗教ではなく、神示を信じ行なう人々や仏法を学び心を低くする人々なのかも知れません。

 それらの山々は白い雪が覆っていて、雪で覆われた美しい白い山になっています。

 

 「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。

 『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

 もし喜んで(神のことばを)聞こうとするなら、あなたがたは、この国(神の民の国)の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。』と、主の御口が語られた。」(イザヤ1:18-20)

 

 白い山は、真理を切に求める人々に、真理の御霊が覆われることを現わしているように思いました。

 やがて、山全体を覆っていた白い雪は、一斉に天に引き上げられて、白かった山々は、茶色の山々となりました。

 神は、御霊を宿す人々を天に引き上げられたのです。日本では、どこの教会であるのかや神道、仏教、キリスト教などの属している宗教とかは関係なく、御霊を宿す人々が天に引き上げられました。これが、御霊の教会なのだと思いました。

 

 ユダヤ人たちに御救いを約束しておられた神は、ユダヤ人たちが神の遣わされた子羊イエスを信じないのをご覧になられると、御救いの手を異邦人に伸ばされました。 

 キリスト者たちに御救いを約束しておられた神は、キリスト者たちが神の遣わされたもうひとりの助け主(真理の御霊)を信じないのをご覧になられると、目に見えない霊なる神を恐れ真実な心で救いを求める、ほかの宗教の信者たちへと御救いの手を伸ばされるのではないのかと思いました。

 日本の宗教の中には、真理のことばがあるからです。神は、彼らの心をご覧になって、御霊を授けられる人々を起こされるのではないのかと思いました。

 

 イエスは言われました。

 「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16)

 

 律法に熱心なユダヤ人(祭司長や律法学者)たちよりも、律法が守れない罪人(遊女や取税人)が先に、神の国に入ります。

 御救いの約束を持つユダヤ人よりも、イエス・キリストを主とする異邦人の方が先に、神の国に入ります。

 イエス・キリストを信じるキリスト者よりも、真理を求めて神道や仏法の教えを受けていた日本人の方が真理の御霊を受けて、先に天に帰るのではないのかと思います。

 

 残されたユダヤ人も御霊を受けていないキリスト者たちも、患難の中で、御救いを受けることになるでしょう。