ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

選民意識と使命感

 

 「ですから、思い出してください。あなたがた(異邦人信者)は、以前は肉において異邦人でした。(神の契約を相続するアブラハムの子孫ではない異邦人は、神の民の系図から外れた者、神の契約の外にいる者でした。)すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々(ユダヤ人)からは、無割礼の人々(聖なる神の契約のしるしがなく、神の国とまったく関わりのない者)と呼ばれる者であって、そのころのあなたがた(異邦人信者)は、(イスラエルの神のひとり子)キリストから離れ、イスラエルの国(神が選ばれた者の国)から除外され、(御救いの)約束の契約については他国人(縁もゆかりもない者)であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。(生まれながら死と滅びが定められ、神から捨てられた人たちでした。)

 しかし、以前は(神の御救いの約束もなく)神から遠く離れていたあなたがた(異邦人信者)も、今では(イエスを神の御子キリストと告白する信仰によって、神の御子)キリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって(イスラエルに)近い者とされたのです。」(エペソ2:11-13)

 

 神が世の罪を取り除くためにイスラエルに遣わされた神の子羊(罪の贖いのための生贄の子羊イエス)の流された血は、世の罪を洗いきよめました。

 神の律法の下にいる神の選びの民(ユダヤ人)も、神の約束がなく無割礼で神の律法が与えられておらず御救いの外にいた民(異邦人)も、贖いの子羊の血によって、罪が赦されたのです。

 律法の下にいた者たち(ユダヤ人)は、律法の違反に伴う刑罰から解放されました。律法を持たない異邦人は、神を離れ、神に横柄で、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、神は、御子イエスの肉のからだの死において、神と和解させてくださいました。

 

 神は、神の子羊イエス(神の御子イエス・キリスト)の血において、神の民でなかった異邦人を、聖く、傷なく、非難されるところのない者として神の御前に立たせてくださいます。

 御子キリストによって、ユダヤ人も異邦人も、両者ともに一つの御霊(キリストが授けられる、真理の御霊)において、父なる神(創造主)のみもとに近づくことができるのです。

 

 「こういうわけで、あなたがた(異邦人信者)は、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

 

 ユダヤ人は、神に選ばれた神の民です。彼らは、みずからを無割礼の異邦人と区別していました。

 イスラエルは、御救いの約束を受けた神の選びの民、選民です。聖なる神の民です。神を知らず、自分勝手に生きる汚れた無割礼の者とは違います。

 

 ユダヤ人の選民意識は根が深いです。

 彼ら(神の御子イエスが遣わされた神の祭司の民)がいなければ、神との和解はありませんでした。私たちは、神の選びの民の恩恵を受けているのです。

 神のことばを受けるユダヤ人の預言者たちがいなければ、聖書が人間に与えられることはありませんでした。

 

 神から神の掟と定めを受け、それを守るユダヤ人は神の選びの民です。聖なる神の御前に立つ聖なる民です。

 

 しかし、この選民意識が彼らにとって、わなとなりました。

 

 「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

 『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

 「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの(人から騙し取る)取税人のようでないことを、感謝します。

 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」

 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、(聖なる神に顔向けできないほどの自分の罪の重さに心が痛み)自分の胸をたたいて言った。

 「神さま。こんな罪人の私を憐れんでください。」

 あなたがた(ユダヤ人)に言うが、この人(自分の罪を告白し、神に悔い改め神に赦しを求めてすがる取税人)が、(神に)義と認められて家に帰りました。(神は取税人の罪を赦されました。)(自分は正しい者とし、自分を高くする)パリサイ人ではありません。』」(ルカ18:9-14)

 

 ユダヤ人は神の律法を守りました。しかし、そのことで、自分は神に受け入れられる正しい者だと思ってしまいました。

 

 イエスは言われました。

 「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人です。わたし(イエス・キリスト)は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)

 

 神の国って、病人や罪人が入る国なのですか。

 神の国は、神の掟を守り、正しい生き方をする者たちが入るところではないのですか。そのために、神の選びの民には、神の律法が与えられているのではありませんか。

 

 実は、律法を守ろうとする自分の中に、律法を破ろうとする自分がいます。その弱さを気付かせるために、神は選びの民に守るべき掟を与えられたのです。守ろうとすればするほど、自分のうちにある罪の心があらわになって来ます。

 正しい者でありたいという願いはあっても、それを守れない自分を見出します。神に従うことができないのです。自分を打ち叩けば叩くほど、神の恵みがわからなくなってくるのです。

 神の掟がなければ、罪を意識することもなかったでしょうに、神の律法を知っているだけに、苦しみは増します。

 

 ユダヤ人たちが、自分自身には神の律法を完全に守ることはできない。でも、守らなければ、御救いに選ばれたイスラエル民族から取り除かれてしまう。どうしようと、罪の泥沼にはまった頃合いに、神は、救世主を遣わされるのです。

 

 「神さま。私は、神が望まれるような聖い者になれません。私の中の罪がわたしをみじめにします。弱い私を助けてください。」と、神の御子にすがる者、神の力により頼む者となることを、期待しておられました。

 

 私は大丈夫と思うパリサイ人は、自分を義人だと自任する者です。自分の正しさがはかりです。その正しさに見合わない者を見下げます。

 しかし、その高ぶりと蔑みこそが、パリサイ人の病であり、罪なのです。

 

 ユダヤ人たちは、神に対して罪を犯しました。自分は病人でもなく、罪人でもない、と言ったからです。

 彼らに罪がないのならば、神の子羊の贖いの血は必要のないものです。彼らは、神の御救いを否定したのです。

 

 彼らの違反が世界の富となって、異邦人の救いとなりました。救いは、異邦人に及んだのです。約束のなかった異邦人がユダヤ人たちよりも先に、永遠のいのちを受け、神の国に入っているのです。

 

 病人や罪人を招かれる神の御子イエス・キリストのもとに、助けを求める異邦人が集まりました。彼らは、自分の力では正しい道を行くことができないことを知り、神に救いを求める人々です。

 

 彼らのキリスト教会も成長すると、ユダヤ人と同じ罪を犯すようになりました。選民意識を持つようになったのです。宗教の霊が結ぶ実です。

 神を礼拝し、献金をする自分たちは救われる者。しかし、教会の外にいる人々は、滅びる者。私たち(クリスチャン)は、キリストの血によって罪がきよめられた聖なる神の子。しかし、教会の外の人々の罪は残されたままできよくない滅びの子。

 

 いつの間にか、キリストの血によって聖とされたことを忘れ、自分が聖なる者であるかのように高ぶります。

 パンと葡萄酒の聖餐は、私たちの罪を赦すために神の御子イエス・キリストが御自身をおささげになって、十字架で肉を裂かれ、血を流されたことを記念する儀式です。

 いつも、この原点に立ち返り、イエス・キリストの十字架のわざを覚え、神の御救いを感謝するのです。

 

 自分は義とされた正しい者であるということに信仰の土台を置くならば、ほかの人々を見下したり、憐れみのない者となってしまいます。神は、自分が神に憐れまれたように、憐れみなさいと言われます。信仰の土台は、キリストの贖いの血と神の憐れみになければなりません。

 

 クリスチャンは、ユダヤ人の選民意識を問題にしますが、自分たちも同じような選民意識を持って、異邦人(神の民ではない人々)を見ていることに気づいていません。

 

 神の御計画は、自分を義人(神に受け入れられる聖徒である)と自任するユダヤ人たちから離れ、イエス・キリストを主とするキリスト教会を生みました。

 しかし、自分を義人(神の国に入る聖徒である)と自任するキリスト教会に、神は生ける神のことばを降ろされません。

 

 神は、終わりの時代に、宗教ではなく、神のことばを素直に受け取る神のしもべを、日本に備えておられます。

 日本人は、長い間、この霊なる神(日本の神)とともにありましたが、選民という意識は持っていません。

 

 神から御声を掛けられた日本人は、使命感を持って、神に仕えるでしょう。

 彼らは、自分が神に選ばれた者であることに安住することなく、神に心を向け神に任されることを受け取って、神から与えられる任務を神の願いどおりに成し遂げることに心を尽くすことでしょう。

 

 霊なる神に従順に仕えても、神が遣わされた天からの救世主イエス・キリストの御名によらなければ、天の御国の門は開かれません。

 終わりの時に、神は、彼らに父の名と子羊の名を知らされます。