ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊によりイスラエルに数えられる異邦人

 

 コルネリオというイタリア隊の部隊の百人隊長がいました。彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをする人でした。ユダヤ人ではありません。ローマ帝国に属する異邦人です。

 

 コルネリオは、幻の中で神の御使いを見ました。

 御使いは言いました。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海辺にあります。」(使徒10:4-6)

 

 コルネリオは、しもべたちのうちのふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わしました。

 その翌日、彼らがヨッパの町の近くまで来たころ、ペテロも幻を見ました。神の聖なる民イスラエルは、神の契約を持たない無割礼の者(異邦人)との交わりは神の禁じられることとして、異邦人とともにすることを嫌っていました。しかし、神は、その幻の中で、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」と語られたのです。

 

 「ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊がペテロにこう言われた。

 『見なさい。三人の人があなた(ペテロ)を尋ねて来ています。さあ、降りて行って、ためらわずに、(異邦人の)彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたし(キリストの御霊)です。』」(使徒10:19,20)

 

 ペテロは、三人から「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話しを聞くように、聖なる御使いによって示されました。」と聞き、彼らを中に入れて泊まらせました。明くる日、ペテロは数人の同行者(ヨッパの兄弟たち)を連れて、三人といっしょに出かけ、コルネリオの家に着きました。コルネリオは、コルネリオの親族や親しい友人たちを呼び集めて、待っていました。

 

 ペテロは、コルネリオから事の次第を聞き、言いました。

 「これで私(ペテロ)は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神は受け入れられるのです。」(使徒10:34,35)

 

 そして、ペテロは、ナザレのイエスのことを語り、「イエスは私たち(弟子たち)に命じて、このイエス(十字架で死に、復活された主キリスト)こそ生きている者と死んだ者との裁き主として、神に定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかし(証言)をするように、言われたのです。イエスについては、(聖書の)預言者たちもみな、この方(神の子羊イエス・キリスト)を信じる者はだれでも、その名(イエス・キリストの御名)によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」(使徒10:42,43)

 

 ペテロが話を続けているとき、ペテロの語るみことばに耳を傾けていたすべての人々(コルネリオの家の中にいた人々)に、聖霊がお下りになりました。

 

 異邦人のコルネリオの家の人々に聖霊が下られたのです。イエスが、父がもうひとりの助け主を遣わしてくださると、弟子たちに約束された聖霊が、無割礼の異邦人にも下られたのです。

 

 「割礼を受けている信者(イスラエルの契約を受けているユダヤ人信者)で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼ら(異邦人)が異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」(使徒10:45)

 

 ユダヤ人の弟子たちは、イエスに命じられたことば、「エルサレムを離れないで、わたし(イエス・キリスト)から聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがた(イエスの弟子たち)は聖霊のバプテスマを受けるからです。」に従い、五旬節の日に、みなが一つ所に集まって、約束のもの(もうひとりの助け主)を待ち望んでいました。

 

 「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上に留まった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。」(使徒2:2-4)

 エルサレムの一つ所に集まっていたイエスの弟子たちに聖霊が下られました。

 

 バプテスマのヨハネ(主の御前に先立って行き、主の道を備え、神の民〈ユダヤ人たち〉に、罪の赦しによる救いの知識を与えるために、神に召された、エリヤの霊の人)は、言いました。

 「私(バプテスマのヨハネ)は、あなたがた(ユダヤ人)が悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方(主キリスト)は、私(バプテスマのヨハネ)よりもさらに力のある方です。私はその方(私のあとから来られる主)の、はきものを脱がせてあげる値打ちもありません。その方(主キリスト)は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(御霊を与え試みの中をくぐらせて、かなかすを除き、きよい者とされます。)

 手には箕を持っておられ、ご自分の脱穀場(神の民の群れ)をすみずみまできよめられます。麦(御霊の実を結ぶ者)を倉に納め、殻(御霊の実のない名ばかりのクリスチャン)を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:11,12)

 

 エリヤの霊をもって来たバプテスマのヨハネは、ナザレのイエスが聖霊のバプテスマを授ける「主キリスト」であることを証言しました。

 また、主イエスは、弟子たちに命じて、イエス・キリストこそ生ける者(信仰によって永遠のいのちを得た者)と死んだ者(救世主キリストを信じず御救いを受けない者)との「裁き主」として、神に定められた方であることを人々に宣べ伝え、その証言をするように、言われました。

 

 神は、イエスがキリストであることのあかしとして、イエスが天に上げられると、イエス・キリストの御名により、イエスを信じる人々に聖霊のバプテスマを施されました。

 また、主キリストは、手に箕を持つお方です。ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。(イエス・キリストは、キリストの御霊の収穫の実を分別し、実を天の御国に納め、殻を消えない火で焼き尽くす、神の家を裁く「裁き主」なのです。)

 

 聖霊のバプテスマによって授けられる御霊は、神の新しい契約のしるしです。神の御子イエスが約束され、父なる神が約束されたもうひとりの助け主(真理の御霊)を受けたしるしです。

 

 ユダヤ人の弟子たちはイエスの命じられた、聖霊のバプテスマを受けました。すると、みなが聖霊に満たされ、各人の舌が神を賛美し御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出しました。知性による言語ではありません。御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出したのです。弟子たちのからだの中で聖霊が働いておられるしるしでした。

 

 なんと、ユダヤ人信者の中で起こった聖霊の注ぎかけが、異邦人のコルネリオの家でも起こったのです。ペテロといっしょに来たユダヤ人たちは驚きました。無割礼の異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれて、異言を話し、神を賛美するのを聞いたからです。

 

 コルネリオたちは、水のバプテスマを受けていませんでした。神との契約の割礼のしるしを持たない異邦人です。律法の下にもいません。神との契約を持たない異邦人、しかも、悔い改めの水のバプテスマを受けておらず罪の中にあると思っていた異邦人たちに、聖霊が下られたのです。

 

 ヤコブは言います。

 「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、言葉で失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ3:2)

 「船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。

 同様に、舌は小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。

 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナ(地獄)の火によって焼かれます。」(ヤコブ3:4-6)

 

 舌の罪の重さが、聖書に書かれています。

 「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。(死か生か)どちらかを愛して、人はその実を食べる。」(箴言18:20,21)

 「悪人はくちびるでそむきの罪を犯して、わなにかかる。」(箴言12:13)

 

 神は聖霊のバプテスマにより、舌を支配し、いのちのことばを与えられるのです。

 

 「そこでペテロはこう言った。

 『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たち(コルネリオたち)に(水の)バプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。』

 そして、イエス・キリストの御名によって(水の)バプテスマを受けるように彼ら(コルネリオたち)に命じた。」(使徒10:47,48)

 

 ユダヤ人の信者たちは、聖霊のしるしを見て、神が異邦人を顧みて、異邦人の中から御名をもって呼ばれる民を召されることを悟ったのです。

 キリストにある兄弟として受け入れられた最初の異邦人は、聖霊の注ぎかけによるものでした。

 

 ユダヤ人たちも、異邦人は割礼を受け律法を守るユダヤ人のようにならなくても、人の心の中を知っておられる神は、私たち(ユダヤ人)に与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために(神が彼らを受け入れ救いを承認されたという)あかしをし、私たち(ユダヤ人)と彼ら(異邦人)とに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったということを、悟ったのです。

 

 神は、人種ではなく、ひとりひとりの心をご覧になられます。神を恐れかしこみ、敬虔なコルネリオの祈りと施しは、天の神の前に覚えられていました。

 

 キリスト教会の水のバプテスマを受けるよりも先に、聖霊で満たされる人がおられるかも知れません。水のバプテスマを受けていないからそれは聖霊ではない。と信者が認めなくても、神の霊は、素直な心に訪れるのかも知れませんね。