ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

宗教の霊

 

 「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼の生贄や、その他の生贄を喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、生贄にまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

 まことに、背くことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなた(サウル王)が主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(サムエルⅠ 15:22,23)

 

 神は神がお立てになった人をも退けられる主権者です。人の中で権威を持つ者も、主権者である神の権威にはかないません。

 

 神である主は仰せられます。

 「正しい人が、正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌み嫌うべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。」(エゼキエル18:24)

 

 そして、主は言われます。

 「正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。

 しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。」(エゼキエル18:26,27)

 

 それゆえ、神である主は仰せられます。

 「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ。―だから、悔い改めて、生きよ。」エゼキエル18:32)

 

 神が望んでおられるのは、霊とまことの礼拝です。天上で献げられている礼拝です。

 「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。

 『主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたの御心ゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。』」(黙示録4:10,11)

 

 自分の冠(栄光)を主の御前に投げ出します。自分の栄光を求めるのではなく、すべての栄光を神に帰するのです。

 自分たちが神に祝福されるのにふさわしい者であるという自負はありません。望みは、神である主にあるのです。

 主の御心ゆえに、御前に存在し得るのです。自分の存在のすべてをもって、神を崇めたたえ、神のみことばに耳を傾けます。心も魂も霊もからだも神の御前にあり、思いは神に向かいます。

 

 まことの礼拝は、聖なる御霊が臨まれる礼拝です。

 人間の理屈はありません。多く献金したから神に喜ばれる。多くの奉仕をしているから神に受け入れられる。その思いは、御霊から出たものではありません。なぜなら、神の家は、神の主権が立つところです。まことの神の家は、神の霊によって機能するのです。人間のわざではありません。

 

 御霊に促されて献金したならば、神に覚えられます。何事も神から発っせられるのが、神の家なのです。神に従って成したことは、どんなに些細な事でも、神に祝福されます。

 

 ユダヤ人たちは、神からいただいた戒めを人間の理屈で理解しようとして言葉を増やし、神の真意がわからなくなっています。律法に従うことで神御自身を見失ってしまいました。アブラハムが信じた生ける神ではなく、モーセが仕えた律法の神を求めたのです。

 

 ユダヤ人たちは善悪を知る知識の木の実を食べたアダムの性質のまま、自分たちで物事を判断しました。

 神のひとり子イエスが生ける神を知らせる者としてイスラエルに来られました。しかし、生ける神のことばを語るイエスは、人間の思いと教えと自分たちの知識に従って自分たちで善悪を決めるユダヤ人たちに拒絶されました。

 

 すでに、ユダヤ人たちの中には、宗教の霊が座を設けていたのです。律法の奴隷である彼らにとっては、儀式が大切でした。風のように自由に働く聖霊のことは理解できません。神は、人間の伝統やしきたりや儀式の上に立つ方です。神のことばに権威があり、その都度の神のことばに従うことが求められます。安息日よりも安息日の主の方が権威があるのです。イエス・キリストの神は、生ける神なのです。

 

 宗教の霊は、人間の言い伝えを教え、しきたりや伝統を守るという型にはめるのです。神の真理をゆだねられていたユダヤ人たちの中に入った宗教の霊は、ユダヤ人たちに真理を見えなくさせました。

 

 それで、まことの神が遣わされた神の御子を知ることができませんでした。イスラエルには、「救い主」の約束のことばが多く語られていました。神が遣わされる主キリストを迎えるために、備えられていたのです。

 しかし、神の多くのことばを受けていながら、神の御子イエスが来られたときに、それが主キリストであることが理解できなかったのです。

 

 ユダヤ人たちにゆだねられたことば(預言)は、キリストを受け入れ、キリストに仕えるためであったのに、彼らは、神の命令に従うことができませんでした。神の子羊イエスの贖いの血で罪が赦されたイスラエルは、神の御子イエス・キリストを信じないという、不信の罪を犯したのです。

 

 キリストのことばがゆだねられたキリストの教会もまた、自分たちの都合でユダヤ人の救いを否定し、キリストの救いから締め出しました。聖霊のおられない教会では、ユダヤ人を迫害し、殺戮しました。そして、神を大いに怒らせたのでした。

 

 ユダヤ人を排除したことで、キリストが命じられた聖霊のバプテスマを失いました。聖霊のバプテスマのことは封印されました。御霊を受けることのない神の家(教会)は、人間の理屈で私的解釈して、キリストの十字架が語られました。

 

 イエス・キリストを信じれば、信じただけで救われる。水のバプテスマを受けてキリスト教会に属せば救われる。キリストの血で贖われたのですべての罪は赦された。クリスチャンは神の子だ。すべて真理でありながら、混ぜ物の教えです。

 

 天上の救いは、キリストの御霊を受けなければ全うしないのです。御霊によらなければ、神のことばは理解できません。御霊によらなければ、神の栄光を見ることも味わうこともできません。御霊によらなければ、天の御国に入る確信も平安も持つことができないのです。御霊が与える平安や喜びや愛は、御霊とともに、その人のうちに留まるものです。だれも奪い取ることができません。

 

 宗教の霊は、聖霊を否定します。人間には理解できないからです。宗教の霊がキリストの教会に入り込むと、人々を真理から遠ざけます。

 神の御子キリストを教えながら、キリストを遣わされた神である主であり、イエスが忠実に聞き従われた父なる神のことがわかりません。肉体をもって来られたイエスはわかるが、イエスを遣わされた霊なる神はわからないのです。

 

 それで、キリスト教は、ほかの宗教と並べられて宗教の一つとされるのです。

 神の御霊を受けなければ、神の御声を聞くことができません。神の御声を聞くことができなければ、神に聞き従うことができません。「聞き従うことは、生贄にまさる。」と主は仰せられます。

 また、「神の御声に聞き従わない者は、偶像礼拝の罪だ。」と仰せられます。偶像礼拝とは、まことの神を礼拝していないということです。イエス・キリストの御名によって献げられる礼拝でありながら、神に受け入れられていないということです。

 御霊を受けないのは、キリストのことばにそむいていることです。キリストの命令に従っていないのです。御霊の導きでなければ、神から出たのではない霊に従う占いの罪を犯しているというのです。

 

 神の御霊を否定することは不信の罪であり、不従順の罪です。神に敵対する悪魔の喜ぶところです。神の御霊のおられない教会は、神の教会ではないのです。

 

 キリストの御霊を受けて、宗教の霊を見分ける者となりましょう。御霊は、真理の御霊です。真理を教えてくださいます。

 真の知識もあらゆる識別力も、真にすぐれたものを見分ける力も、キリスト・イエスの父がお与えになったもうひとりの助け主(真理の御霊)によって与えられるのです。

 

 「あなたがたが、キリストの日(キリストにお会いする日)には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」(ピリピ1:10,11)