ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスは、人の心を浮き彫りにする

 

 正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた、シメオンという人が、エルサレムにいました。

 彼の上に、聖霊が留まっていました。そして、シメオンは、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていました。

 

 「彼(シメオン)が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親(ヨセフとマリア)が、その子(ヨセフの妻〈処女マリア〉が生んだ神の御子イエス)のために(ユダヤの)律法の慣習を守るために、入って来た。

 すると、シメオンは幼子(イエス)を腕に抱き、神をほめたたえて言った。

 『主(イスラエルの神)よ。今こそあなた(主)は、あなたのしもべ(シメオン)を、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。(主のキリストを見るまでは決して死なないと主に約束されたシメオンは、主のキリストを見たので、神の御救いの恵みをたたえつつ、安心して目を閉じ先祖のところに行くのです。)

 御救いはあなた(主)が万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。』」(ルカ2:27-32)

 

 シメオンが待ち望んでいたイスラエルの慰められることは、イスラエルだけの御救いではありません。万民の前に備えられた御救いなのです。

 イスラエルが主キリスト(神の御子イエス・キリスト)の御救いを受けることは、全世界の御救いとなります。

 主キリストのことばは、神の御救いの約束を持たない異邦人(無割礼の人々)に啓示の光となって、彼らを御救いへと導くのです。イスラエルの救いは異邦人の救いとなり、異邦人の救いはイスラエルの救いとなるのです。

 

 主キリストの御救いを受ける者たちは、神の国に集められ、神の御子イエス・キリストが治める、新しいイスラエル(天の御国に入る神の子どもたち)の国民となります。

 キリストと天の軍勢が、争いと悪に満ちた世を滅ぼし、すべての国々が平和に安心して暮らす、新しい世(千年王国)が地上に建国されます。

 主キリストは、王の王であられ、全地にあって力ある主権者です。諸国の国民は、御救いを求めて、エルサレムのイスラエルの王(神の子羊イエス・キリスト)のもとにやって来きます。神のみことばが、シオンから出るのだからです。

 

 「シメオンは(イエスの)両親(ヨセフとマリア)を祝福し、母マリアに言った。

 『ご覧なさい。この子(神の御子イエス)は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

 剣があなた(母マリア)の心さえも刺し貫くでしょう。(イエスのことで、心がえぐられ、悲しみで死の境地を味わうことでしょう。)

 それは多くの人の心の思いが現われるためです。(イスラエルの中で、神のしもべではない人々が明らかにされ、神の御子イエスを憎み、イエスを殺すのです。)」(ルカ2:34,35)

 

 イスラエルが神のみもとに導いてくれると信じていたレビ族の人々は、神のしもべではなかったのです。彼らの心は、神から遠く離れていました。彼らは、神のひとり子イエス・キリストを憎みました。

 彼らは、イエスの存在が、自分たちの立場をおびやかすことを恐れました。彼らの心の中にあったのは、神ではなく、自分自身だったのです。彼らは、保身のために、神の聖者を殺し、イスラエルに罪を犯させる、まむしのすえだったのです。

 

 ナザレのイエスが、神の御子キリストであるということに、レビ人はつまずきました。イエスは、祭司を出したことのないユダ族から出た人です。神に仕える部族の人ではありません。

 

 レビ族から出ていないイエスが、神の真理を知らせるというのですか。異邦人も住むナザレの人イエスが恥知らずにも何を言うのですか。

 きよめられていない異邦人との関わりを断って、神が選ばれた聖なる民イスラエルの「聖」を保つユダヤ人たちは、異邦人も住む地のナザレ人イエスを蔑んでいました。ナザレから何の良いものが出るだろう。

 

 律法の奴隷となり、規則に縛られたユダヤ人たちは、律法を重視し、霊なる神の御声を聞くことができませんでした。

 

 彼らの先祖の士師サムソンはペリシテ人の女を愛しました。

 サムソンの父と母は、言いました。「あなた(サムソン)の身内の娘たちのうちに、または、私の民全体(ユダヤ人)のうちに、女がひとりもいないというのか。割礼を受けていないペリシテ人(神の契約を持たない異邦人)のうちから、妻を迎えるとは。」(士師記14:3)

 しかし、聖書にはこう書いてあります。

 「彼(サムソン)の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。」(士師記14:4)

 士師サムソンがペリシテ人の女を愛することは、神から出たことだったのです。サムソンは、愛したペリシテ人の女に裏切られ神の毛がそり落されて、ペリシテ人に捕まえられ、その目をえぐり出されました。

 サムソンは、母の胎内にいるときから、神へのナジル人でした。頭にかみそりを当てていない者です。それで、サムソンの上に、主の霊が下ると、サムソンは子やぎを引き裂くように獅子をも引き裂くようなすごい力を振るうのでした。

 サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めました。すると、神の霊が戻って来られました。

 

 「サムソンは主に呼ばわって言った。

 『神、主よ。どうぞ、私(サムソン)を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。』

 そして、サムソンは、宮を支えている二本の中柱を、一本を右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。

 そしてサムソンは、『ペリシテ人といっしょに死のう。』と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼(サムソン)が生きている間に殺した者(ペリシテ人)よりも多かった。」(士師記16:28-30)

 

 外国人の女を愛することの罪は、ソロモン王のことではっきりと、知らされていました。ソロモン王が外国人の女たちを妻とし、彼女らの神(偶像の神々)を心に受け入れたことで、神(イスラエルの神)の怒りを買い、イスラエル王国は、南のユダ(ユダ族とベニヤミン族の二部族)と北のイスラエル(そのほかの十部族)とに分裂したではありませんか。

 

 この時代に律法に厳格なユダヤ人がいたならば、サムソンの行為は罪に定められて裁かれることでしょう。しかも、サムソンは、イスラエルの国をさばく士師なのです。

 しかし、このことはすべて、神から出ていたのです。

 神に忠実なしもべは、神から出ているものを知り、律法に照らし合わせて重箱の隅をほじくるようなことはしないでしょう。神から出たことにへりくだり、従うのです。

 

 神の御子イエスがイスラエルに現われると、祭司長や律法学者やパリサイ人たちは、律法に照らし合わせて、イエスを槍玉に挙げ、民を扇動しました。彼らの心の中に、神はおられないことが明らかになりました。

 

 人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。(サムエル第一2:25)

 

 イエスの時代、レビ人たちは、主の敵となりました。

 終わりの時代はどうでしょうか。

 

 イエスはゲラサ地方に入られました。悪霊に憑かれて長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた男は、イエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言いました。

 「いと高き神の子、イエス様。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」と言いました。

 イエスが彼(男)の中に大勢の悪霊が入っているのを知られると、悪霊どもは、「底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんように。」と言ってそのあたりに飼ってあるおびただしい豚の群れに入ることを願うと、イエスがそれを許されました。

 すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死にました。

 豚の飼い主はこの出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げました。この出来事を見に来た人々は、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、イエスの足もとにすわっているのを見、恐ろしくなりました。

 ゲラサ地方の民衆はみな、すっかり怯えてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願ったので、イエスは船に乗って帰られた、と聖書のルカ8:26-37に書かれています。

 

 悪霊につかれていた男は、イエスに救われました。しかし、町の人々は、神をあがめるどころか、イエスに自分たちから離れてくださるように願ったのです。彼らは、神のことよりも、自分たちのこの世の生活が脅かされることをおそれたのです。

 

 悪霊どもは、イエスがいと高き神の子であることを知っていました。また、悪霊につかれた人は、イエスの解放のみわざを受けて、救われました。

 ユダヤ人が罪人だと思っていた人(悪霊につかれた男)がイエスを信じて救われ、自分たちは神の民であると言っているユダヤ人たちは、自分たちのところから離れてくださるようにと、イエスに願うのです。また、イスラエルの教師である祭司長や律法学者やパリサイ人たちは、イエスを袋叩きにしました。

 

 イエス・キリストの存在は、光と闇とをあらわにするのです。イエス・キリストは、天から来られた神の御子、真理であるからです。

 闇を愛する者は、神のひとり子の御名を信じることができません。彼らは、すでに裁かれているのです。

 

 「その裁きというのは、こうである。光(神の御子イエス)が世に来ているのに、人々は光よりも闇(この世と自分自身)を愛した。その行ないが悪かった(神に受け入れられるものではない)からである。

 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:19-21)

 

 イエスの父(神)は、終わりの世に、もうひとりの助け主(真理の御霊)を遣わしておられます。

 終わりの時代、神は、聖霊(真理の御霊)のことばによって、人の心を浮き彫りにされるのでしょう。

 御霊を持たない人々は、聖書のことばでなければ受け入れません。しかし、御霊を持つ人々は、御霊によって神からのことばかどうかを知り、神からのことばを信じるのです。

 

 シメオンのように、聖霊が留まっている人々は、神道であろうと、仏教であろうと、啓示の光(御霊の導き)を受けて、聖霊の声に従うことでしょう。彼らは、キリストの御霊を宿してはいませんが、聖霊がともにおられる人々でしょう。

 彼ら(日本の神道や神示や仏教の信者の中にいる真実な人々)は、幼子イエスを拝みに来た東方の賢者たちのような人々でしょう。