ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

聖霊のバプテスマと火のバプテスマ

 

 人の子として来られた神のひとり子イエス・キリストの歩みを見てみましょう。

 ナザレのイエスは、神がご自分(神の子羊イエス)の前に遣わされた、エリヤの霊のヨハネから水のバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られました。

 

 ヨハネは、エリヤの霊と力で主(キリスト)の前ぶれをし、(神に)逆らう者(ユダヤ人)を義人(神に聞き従う神の民)の心に立ち戻らせ、(主キリストをお迎えするのにふさわしい)整えられた民(神の民イスラエル)を主(神の御子キリスト)のために用意する人でした。

 

 ヨハネは神の民を整えるために、神に召された人です。ユダヤ人たちの心を、神がイスラエルに遣わされる主キリストに向けさせて、イスラエルを主キリストのことばを聞く耳のある民として用意するために立てられた人です。

 

 キリストは、救世主として神に油注がれた人です。聖霊のバプテスマを授ける権威のある、神の御子です。

 イエスがヨハネのところに来られた時、ヨハネは、自分にはキリスト(救い主)に水のバプテスマを授ける資格はないと思い、「私(ヨハネ)こそ、あなた(主キリスト)から(聖霊の)バプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」と言って、そうさせまいとしました。

 

 「ところが、イエスは答えて言われた。

 『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいこと(水のバプテスマ)を実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。(エリヤの霊のヨハネとキリストとにふさわしい、成すべき事です。)」そこで、ヨハネは承知した。」(マタイ3:15)

 

 神のひとり子は、肉体を持つ「人の子」として来られました。救世主は神の御姿で来られませんでした。

 神が遣わされたのは、ユダヤ人の罪の贖いをする神の子羊イエスです。(イスラエルの)神は、神の偉大な御力をもって、神が造られた人(死と死後の裁きが定められた罪人たち)を死と滅びから救い出されるのではありません。

 神は、御自身のひとり子(御子)を、罪人の罪の身代わりとして神の民の罪を負う贖いの子羊、すなわち、罪の生贄の子羊とするために肉体を造り「人の子」として、イスラエルに遣わされました。

 

 神のひとり子が地上に来られたのは、罪人の罪を負うためでした。人の子は、失われた人を捜して救うために来られたのです。罪人を招いて、悔い改めさせるために来られたのです。

 

 すべての人は、創造主であられる神に造られました。そして、すべての人は、神のことばにそむき、罪ある者となったのです。だれひとり、きよい者はいません。全き光の中で生きることのできる者はいないのです。

 

 神は光です。神のうちには暗いところが少しもありません。全き光です。少しでも暗い者は、神の光のうちに留まることができません。光り輝く天使長ルシファーですら、神に背くと天から追放されました。

 土から造られた人は尚更です。初めから、神の子に等しい聖さはないのです。肉体を持つ人間には、御使いのような透き通るような完全なきよさはないのです。人間は全き光の存在ではありません。

 

 すべての人は、暗さのある罪人です。そして、闇の世に存在しています。光ではないので、天に上ることはできません。地に下るしかないのです。

 

 神は、神の契約の民イスラエルを救わなければなりません。神は、イスラエルに御救いの約束をしておられるからです。約束を破るならば、イスラエルの神は不真実となります。真実な神にふさわしいことではありません。

 

 神の御子イエスは、神の真実を証明するために来られました。神は、御救いを約束された神の民を救うために、救い主キリストを遣わされました。

 神の御子イエスは、父なる神とともに土から造られた人を天でともに生きる神の子どもに創り変えるために来られました。神が契約を結ばれた神の民に、永遠のいのちを得させるために来られました。

 

 「イエスは(ヨハネから)バプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」(マタイ3:16)

 

 土から造られた人と同じ肉体をもつ神の御子イエスは、肉なる者の罪を取り除く救い主として、まず、肉なるからだに水のバプテスマを受けて、肉なる性質を持ったままで(肉体をもつイエスは、痛みも苦しみも葛藤もお持ちでした。痛みも悲しみも苦しみも悩みも神のものではありません。水でからだをきよめることは、この世の人としての感じ方や生き方を改めて、天の神を仰ぎ、神とともに生きる誓いです。)神に聞き従う天の生き方を選ばれました。

 

 イエスが神とともに神の道を歩む新しい者として水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、イエスの上に留まられました。

 

 神の御子イエスは、ご自分に続く神の子どもたち(御霊の新しい創造を受ける人々)のために、模範となられました。

 人の子イエスは、肉の生き方を改めて神の国を目指す神の子どもの歩みを、神の子どもたちの手本として、自らが歩まれました。神のひとり子は、もともと神の御子でありながら、人の子として生まれて人の子からスタートして神の子どもとされる過程を踏まれたのです。

 

 そして、神の子羊として罪の贖いの血を流して墓に入り、死から甦って天に上られました。

 天に上られると、復活のイエス・キリストは、ご自分の後に続く神の子どもたちに聖霊のバプテスマを授けるキリストとなられました。そして、天の聖所で、神の子どもたちのために執り成しをする大祭司となられました。

 

 水から上がられると御霊が留まられたイエスは、聖霊のバプテスマを授けるキリストとなられ、水のバプテスマを受けた新しい心の人々に、聖霊のバプテスマを授けられます。

 

 イエスは御霊に導かれて、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれました。

 試みる者(悪魔)は、四十日四十夜断食した人の子イエスに、肉体を生かす食べ物を求めさせます。神のことばではお腹がふくれないからです。

 

 イエスは神のことばこそがいのちの糧であると言われます。

 「自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配してはいけません。いのちは食べ物より大切なもの、からだは着物より大切なものではありませんか。

 空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

 あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

 だから、神の国(永遠のいのち)とその義(神に受け入れられることは何か。)とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらの(必要な)ものはすべて与えられます。」(マタイ6:25、26,32,33)

 

 次に、悪魔はイエスに、神の子なら、こうして見よ。と命じます。悪魔は、聖霊のバプテスマを受けた人にも、神の子であるということをちらつかせて、神を試みさせようと誘惑して来ます。神の子ならば、神はきっとこれをかなえてくださるに違いない。そして、叶えられないならば、神に愛されていないと神の愛を疑わせて、その人を悪魔の試みる者の性質に取り変えて、神を試みる者とし、神の道からずらして行くのです。

 

 イエスは言われました。

 「『あなたの神である主を試みてはならない。』と(聖書に)書いてある。」(マタイ4:7)

 

 今度は、悪魔はイエスに、世の栄華を見せて、言いました。「もしひれ伏して私(悪魔)を拝むなら、これを全部あなた(イエス)に差し上げましょう。」(マタイ4:9)

 

 祝福されていなければ、神の子としての証になりません。ほかの人々は、神の恵みと祝福を見て、神がともにおられ、神に愛された人だと認めてくれるのではないでしょうか。いつも失敗ばかりで、貧しくて社会的にも評価されていないクリスチャンを見て、神の子になりたいと思うのでしょうか。

 祝福が神と思っている人は、悪魔と契約してでも、人に認めてもらえる祝福を得ようとするかも知れません。

 

 イエスは言われます。

 「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と(聖書に)書いてある。」(マタイ4:10)

 

 聖霊を受けると、聖霊は、イエスを導かれたと同じように、悪魔の試みを受けるために、荒野に導かれます。ひとりにさせられるかも知れません。他の人の不理解による孤独なのかもしれません。大失敗の出来事かもしれません。大切な人との別れかも知れません。しかし、どうしてこんな事が、というようなことが許されるのです。

 

 聖霊が安心して住まわれるためのきよめなのでしょう。信仰を築くために工事がなされるのです。火のバプテスマです。火は肉の性質を焼いて、肉の思いを殺していかれます。聖霊を受けた人は、肉の力を弱められて行きます。健康だった人が病気となり、強い人が弱くされ、豊かな人が貧しくされることもあるのかも知れません。

 

 人間が考える愛とは真逆なことが起こって来ます。クリスチャンになる前の方が豊かで世間的に恥ずかしくない良い状態だったと思うことがあるかも知れません。神を知ってからの方が、日陰の人生になったように感じられることがあるかも知れません。

 神を信じてから良いことがない、と感じることも起こるかも知れません。しかし、それは、神が許された、悪魔の試みかも知れません。

 

 最初が肝心です。調子よくいって、何の試みもなく過ごしているほうが、実は危険なのです。順調に進んでいる先の試みに耐えられないのです。試みがあることは、神に愛されている証拠です。神が御自分の子どもだと思っておられるから、試みを許され、また、懲らしめられもするのです。

 それは、暗い肉の性質を焼いて、御霊のいのちの輝きを輝かす光の子にするためです。闇の中から連れ出して、光の中で生きる神の子どもにするためです。

 

 バプテスマを受けて、心を新たにしても、聖霊を受けなければ、きれいに片付いた心に悪い霊が入ることが書かれています。

 

 イエスは言われました。

 「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。

 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家は空いていて、掃除してきちんと片付いていました。

 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」(マタイ12:43-45)

 

 悪霊は、何かの物体の中に入る者らしいです。バプテスマを受けて神に誓いをすると、中にいた悪霊はそこに住めなくなって出て行きます。神に誓いを立てていない者のところに入ろうとして捜しますが、みな満員御礼(すでに住みついている悪霊がいるの)で入る場所がありません。

 そこで、出て来た人のところに帰って見ると、神に誓って悪霊を追い出して片付いた後空き家になっていて、そこにはまだ聖霊が住んでおられませんでした。

 神に誓いを立てた者は警戒しなければなりません。それゆえ、神の聖霊に乗っ取られないように、自分よりも悪い霊を七つも連れて来て住みついてしまうのです。

 

 神は、聖霊のバプテスマと火のバプテスマによって、神の御子イエス・キリストを信じ神に誓いをした人を、御霊によって新しく生んで、新生したその人を火のバプテスマによって御霊の器に整え、神の子どもに造り変えていかれるのです。