ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

悔い改めと聞き従い

 

 神は、モーセを召し、モーセによって、四百年の間ヤコブの家を苦しめた奴隷の家エジプトからイスラエルを連れ上らせ、荒野へ導かれました。

 イスラエルがシナイの荒野にはいり、山のすぐ前に宿営すると、モーセは神のみもとに上って行きました。

 

 「主は山からモーセを呼んで仰せられた。

 『あなたは(モーセ)は、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。

 あなたがた(イスラエル)は、わたし(全能の神、主)がエジプトにした(十の災いを下し、第十番目の災いで羊の血の塗られていないエジプト人の家々の初子をみな打って死なせ、羊の血の塗られたイスラエルの家々を過ぎ越された)こと、また、あなたがたをわしの翼に載せ(紅海の水を分け海の中にできた陸地を通らせて荒野に導き、追いかけて来るエジプトの王と軍勢を紅海の水に沈めて、イスラエルをエジプトから守り贖い出し)、わたしのもとに連れて来たことを見た。

 今、もしあなたがたが、まことにわたし(主)の声を聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなた(ユダヤ民族)はすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたし(ユダヤ民族の父祖アブラハムの神、創造主)のものであるから。

 あなたがた(イスラエル)はわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

 これが、イスラエル人にあなた(モーセ)の語るべきことばである。』

 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼ら(イスラエル)の前に述べた。

 すると(イスラエルの)民はみな口をそろえて答えた。

 『私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。』

 それでモーセは民のことばを主に持って帰った。すると、主はモーセに仰せられた。

 『見よ。わたし(天の神)は濃い雲の中で、あなた(モーセ)に臨む。わたし(イスラエルの神)があなた(モーセ)と語るのを民が聞き、いつまでもあなた(主のしもべモーセ)を信じるためである。』

 それからモーセは民のことばを主に告げた。」(出エジプト19:3-9)

 

 アブラハム、イサク、ヤコブの神、主から「わたしに聞き従うならばアブラハムの子孫ヤコブの家は、全世界にあって祭司の王国、聖なる国民となる。」とのことばを受けたイスラエルは、「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」と応答しました。

 

 神は、イスラエルの応答を受け入れ、双方の契約は締結されました。すると、神は、イスラエルを祭司の王国とするために、モーセに十戒をお与えになりました。神は、契約を結んだイスラエルに、神の民としての掟と定めとを与えになりました。

 

 「聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私(モーセ)があなたがた(イスラエル)の耳に語る掟と定めとを。これを学び、守り行ないなさい。

 私たちの神(イスラエルの神)、主は、ホレブで私たち(イスラエル)と契約を結ばれた。

 主が、この契約を結ばれたのは、私たち(ユダヤ民族)の先祖たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)とではなく、きょう、ここに生きている私たち(ユダヤ人)ひとりひとりと、結ばれたのである。」(申命記5:1-3)

 

 神は、契約を結んだ神のしもべアブラハムの子孫イスラエルと契約を結ばれました。アブラハムの契約の更新ではありません。

 神は、全地のすべての民族の中からユダヤ民族を選ばれました。そして、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫ユダヤ民族を、神の民イスラエルとされたのです。

 神は、ヤコブの十二人の息子を族長とする十二部族を神の聖なる民イスラエルとし、御自身をイスラエルの神と名乗られました。

 

「あなたがた(イスラエル)は、あなたがたの神(イスラエルの神)、主の子どもである。

 あなた(イスラエル)は、あなたの神(イスラエルの神)、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなた(イスラエル)を選んで御自分の宝の民とされた。」(申命記14:1,2)

 

 イスラエルは、主の子どもとされたのでした。しかし、イスラエルは偶像の神々を拝んで彼らの主を裏切りました。神が少ししか怒らないと、神のことばを軽んじ、神を侮りました。神の懲らしめを受けると、彼らの心は神から離れました。彼らは、神の懲らしめの御手を憎み、神の良い御計画を踏みにじり、主の子どもであったのに、自ら契約を破り神から離れました。

 

 神は、モーセやイスラエルの預言者たちを通して、イスラエルに、イスラエルの罪を贖う主キリスト(救い主)を遣わすことを約束しておられました。しかし、神に罰せられたイスラエルは、モーセに望みを置き、モーセの律法を民の宝としました。律法の中に、神の民のしるしを見出そうとしたのです。

 

 それで、生ける神のことば(真理)を語る神の御子キリスト・イエスを否みました。イエスの語る真理のことばは全き光であって、闇を照らしてユダヤ人の罪をあらわにし、罪の中にいるユダヤ人たちにとって責められる痛いものでした。彼ら(イスラエル)は、自分の罪を認めず、悔い改めようとはしませんでした。彼らは、光を求めながら闇のうちを歩みました。

 主の子どもであったイスラエルは、父の家(神)を離れ放蕩の旅に出て帰って来ません。

 

 神の御子イエスは、十字架で律法の呪いを砕かれました。もはや、ユダヤ人は律法に縛られなくていいのです。

 キリストが流された贖いの血は、エルサレムから流れ、世界中に広められて、世界を覆う贖いの血となりました。世界中を覆い尽くし、神は、世界中の国民や民族の中で、神の御子に聞き従う主の民を新しく創造し、集められます。

 

 「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:9)

 

 血肉のイスラエルは、神が遣わされた神の御子(主キリスト)に背いて、モーセと預言者たちに聞き従いませんでした。

 ユダヤ民族以外の民族の人々(異邦人)は、初めから律法の外にあり、神の律法を守る者ではありません。

 

 ユダヤ人も異邦人も神に罪を犯し、神から遠く離れている罪人です。

 罪人はまず、神の御前で自分の罪を言い表わし、罪を悔い改めなければなりません。言い表されていない罪は光の中に出されていません。闇の中に残されたままです。

 

 悔い改めは、主のためではありません。イエス・キリストのためではありません。自分自身のためです。悔い改めると、罪の重荷が自分の肩から外されるのです。悪魔の足場が砕かれるのです。手放せない頑固な罪は、何度も何度も叩いて砕かなければなりません。悔い改めは、自分自身の身柄を、罪の親分(悪魔)から義の親分(神)の御手に渡すことになるのです。

 悔い改めは一度だけではありません。幾度でも罪を言い表わします。しかし、赦された罪の悔い改めを何度も繰り返すのは、神の赦しを信じない不信仰の罪を負うことになってしまうでしょう。

 

 悔い改めない心は、頑なになってしまい、神のことばの種を塞ぐ、いばらの地のようです。頑なな心は、自分には罪はないと間違った義(不義)を持ってしまう恐れがあります。

 やわらかい心は神の導きに敏感です。聞く耳を持ちます。そして、自分の罪を認めたならば、神の御前にへりくだり悔い改め、罪から離れることができるのです。

 

 「イエス・キリストを信じます。」と誓っても、罪の中に留まり続けるならば、イスラエルのように、恵みを手放すことになってしまいます。また、世に心を移すと、神の御救いの約束がわからなくなります。

 

 信じて誓ったならば、神のいのちの恵みを味わいましょう。そして、神を喜び楽しみましょう。御救いを受け取る者には、天の御国が用意されているのです。悲しみも涙もありません。とこしえの安息があるのです。

 神をたたえ感謝するうちに、神を愛する愛が育っていきます。そして、神に愛されているという、得難い守りのような愛を実感するようになれば、信仰に根が生えてきたのです。

 

 神に罪を言い表わし、隠し事のないようになると、神との交わりが楽しくなります。自分のことを最も理解し最も愛してくれる最強の味方を友に持つような頼もしさと晴れ晴れしさです。

 

 神は、イスラエルの誓いをご覧になり、モーセに律法をお与えになりました。神の民の契約のしるしです。

 イスラエルは、肉に置いて割礼のしるしを受け、ひとりひとりは律法のしるしを持って、神の民に加えられます。

 そして、神に授けられた律法「主キリスト(神の子羊イエス)に聞き従わなければならない。」に聞き従うことで、主の宝の民とされるはずでした。

 

 神は、律法を守ることのできない血肉のイスラエルに、神の御子イエス・キリストによって、新しい皮袋を用意されました。キリストの御霊によって新しく創造されるイスラエルです。

 

 神の御子イエスを救い主キリストと信じるならば、神の子どもとされる特権を得、神と契約が結ばれます。罪を悔い改め神にへりくだる者のうちには、聖霊を迎える用意があります。

 神は、新しいイスラエルに、文字の律法ではなく、御霊を授けて心に御霊の律法を書きしるされます。それは、ひとりひとりと結ばれる契約です。御霊の信仰に結び合わされる契約です。

 

 文字の律法は、自分の信仰で従う努力をしますが、御霊の律法は、御霊の信仰に自分自身を重ねることで、御霊の導きのままに聞き従うという、世で体験したことのない歩みとなります。自分と御霊との信頼関係の歩みです。ひとりではありません。御霊がともにおられます。

 また、御霊は、キリストのことばを思い起こさせ、キリストに聞き従う歩みへと導き、信仰を成長させてくださいます。

 

 新しいイスラエルに招かれた人は、悔い改めとともに、御霊を受けて、御霊にすがりつつ、人間が歩いたことのないいのちの道を御霊とともに歩んでまいりましょう。

 神の子どもは、悔い改めによって肉を殺し、御霊によっていのちを得、神が用意されているいのちの道(御霊に聞き従う歩み)を進んで、神の国に入るのです。