ヨハネの黙示録(6章~)には、終わりの時代に開かれる七つの封印のことが書かれています。
第一の封印が解かれると白い馬が、第二の封印が解かれると火のように赤い馬が、第三の封印が解かれると黒い馬が、第四の封印が解かれると青ざめた馬が出て行くことが書かれています。これらの馬は天から出て来たものです。よって、悪魔から出たものではなく、神から出たものでしょう。
私は、この白い馬を聖霊の注ぎととらえました。使徒たちの時代に、エルサレムの一所に集まるイエスの弟子たちの上に注がれたのが、最初です。その時から今日に至るまで、幾度も聖霊の注ぎかけの出来事は起こっています。教会では、これをリバイバルと呼びます。
最初の聖霊の注ぎかけ(聖霊のバプテスマ)を「初めの雨」と呼び、終わりの時代の聖霊の注ぎかけを「終わりの雨」と呼びます。
「シオンの子らよ。あなたがたの神(イスラエルの神)、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」(ヨエル2:23)
乾燥するイスラエルの地では、固くなった地が初めの雨で柔らかくなり、柔らかくなった地に種を蒔きます。作物が育ち収穫前に終わりの雨が降って、豊かな実りとなります。初めの雨も、終わりの雨も、作物の豊かな収穫のために大切な恵みの雨です。
それゆえ、初めの雨と終わりの雨は、ユダヤ人にはなじみのある言葉です。祝福の象徴です。
イスラエルの神は、ご自分の民ユダヤ人たちにわかる事象によって、神の国の収穫について語られました。
神の国の収穫とは何でしょうか。天の御国に入る魂のことです。神が地上で実らせられた実(新生した神の子ども)を、収穫される時が来ます。
神は、子羊イエスを遣わされて、罪の縄目に縛られた魂を解放するために、子羊の血を注がれました。子羊の血は、罪の赦しとなり、死に定められた魂の代価となりました。神は、子羊の血によって、永遠の死に定められた闇の王悪魔の手から、罪人の魂を買い戻されます。
神の子羊イエスを信じる者は、子羊の血を受け取る者であり、神によって、悪魔から買い戻された魂です。悪魔の支配下の罪の奴隷から解放された魂です。
神は、子羊を死から甦らせ、復活のからだで天に上げ、主権と光栄と国を与えられました。子羊は聖霊のバプテスマを授けるキリストであり、世界を治める主権者であり、イスラエルの王となられました。
父なる神から主権を与えられた神の子羊キリスト・イエスは、イエス・キリストのことばに聞き従いエルサレムに集まって父の約束であるもうひとりの助け主を祈り待ち望む弟子たちに、聖霊のバプテスマを授けられました。
初めの雨です。肉なる人々の食物の地の作物ではなく、神に献げられるとこしえの実(聖霊の実)を実らせる、聖霊の雨です。
キリストは、聖霊のバプテスマによって、キリストを信じるひとりひとりに御霊を分け与えられます。真理の御霊です。キリストの御霊であって、神の御子キリストと同じ思いを持つ神格者です。
神は、真理の御霊によってイエスのことばを思い起こさせ、真理を教え、神の子羊イエスの弟子たちをいのちの道に導かれます。そして、肉(自我)によって生きていた者の肉を殺し、御霊にて生きる新しい人に造り変えられます。
人は、真理の御霊を受けると、御霊に導かれ、火のバプテスマ(試みの火)によって、頑なな肉を砕かれ、キリストに似た者、神の子どもの性質をかたち造っていかれます。肉が破かれる苦しみと痛みに耐えかねて逃げ出す者は多いです。
しかし、永遠のいのちの約束を握って離さない人々は、自分が死んでも、イエスが死から甦られたように、必ず生きるという希望を持つ人です。
イエス・キリストが唯一の救い主であると信じる人が、どうしてキリスト以外のところに助けを求めるでしょうか。
彼らは古いものに死にます。自分を手放します。イエス・キリストに望みをかけるのです。十字架のイエスが自分の姿となります。「私は、十字架でイエスとともに死んだ。」と告白するのです。
キリストが授けてくださった御霊によって、自己中心の肉の性質から、天の御国に入る神中心の生き方に変えられ、本人の気づかない間に、神の子どもの性質に造り変えられていきます。ほかの人のことを思いやる心、平和を愛する心、神を愛する愛、神に感謝し神を喜ぶ新しい心が造られるのです。
そして、神は終わりの雨によって、御霊が生み育てた聖霊の実(神の子どもとされる魂)を豊かに実らせて収穫されます。
第一の封印は解かれているようです。
初めの雨は、イエス・キリストを信じるユダヤ人に注がれました。
しかし、現在は、ユダヤ人だけではなく、世界中に、イエス・キリストの弟子たちがいます。御救いは異邦人にも及んでいるからです。
この度の終わりの雨は、全世界に注がれているようです。しかも、シナゴーグ(ユダヤ人の教会)やキリスト教会に限られていません。ほかの宗教の人々も含む、全世界の人々の上に、祝福の雨(聖霊)が注がれているようです。
聖書を知らない人々が、終わりの日について予言し、警告しています。聖霊が世界を満たしているからでしょう。もちろん、悪霊のものもあるでしょう。しかし、多くの人に未来を見ることが許されています。ここに神の知恵があります。神は、すべての人が終わりの日に備えることを望んでおられるのです。
この白い馬の働きは最後まで続きます。真理を悟らせる神の働きです。聖霊が取り除かれた後には、ふたりの証人と十四万四千人の人がその働きを引き継ぎます。
「あなたがたが知っているとおり、彼(悪魔の権威をもって世界を苦しめる不法の者、反キリスト)がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止めるもの(聖霊)があって、自分が取り除かれる(天に引き上げられる)時まで引き止めているのです。」(テサロニケ第二2:6,7)
終わりの時代の前兆を見る現在、白い馬は冠を与えられて神の収穫(信仰の勝利者)のために働きます。
第二の封印が解かれると、火のように赤い馬がやって来ます。これも開かれているのではないのかと思います。これは、試みの火です。人々の心の中にあるものを明らかにする試みです。
「主は仰せられた。
『この民(イスラエル)は、わたし(イスラエルの神)が彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたし(イスラエルの神)もまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民(カナンの地の住民)を、彼ら(ユダヤ民族)の前から一つも追い払わない。
彼らの先祖たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)が主の道を守って歩んだように、彼ら(ヤコブの子孫イスラエル)もそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」(死式2:20-22)
神は、イスラエルの地に、あえて、イスラエルに敵対する敵を残したままにされました。それは、イスラエルを試みるためでした。神は、残された民族によって、ユダヤ人が神に忠実な民なのかどうかを試みられます。
神は、それらの国民に、イスラエルに敵対する思いを入れ、立ち向かわせられます。
「これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである。」(士師記3:2)
赤い馬は、ユダヤ人に敵対するアラブ人のハマスに攻撃の思いを入れ、イスラエルに戦いを仕掛けさせられたのではないのかと思います。
現在のイスラエル国家は、1948年に建国されました。それ以降に生まれた人々は、イスラエルに国のなかった時代のことを知りません。
イスラエルの地は、エジプトから出て荒野でモーセの律法を授けられて神の民イスラエルとされたユダヤ民族が、ヨシュアに率いられてカナンの地の住民と戦い、神が父祖アブラハムに与えられた地、先祖アブラハム、イサク、ヤコブの墓があるカナンの地を勝ち取ってイスラエル王国を建てた、ユダヤ民族の先祖の地です。イスラエルの地は、ユダヤ人の先祖が神に従い、戦いで勝ち取った地なのです。
1948年以降にイスラエルの地で生まれたユダヤ人たちが戦いを学ぶために、また、彼らを神の契約を堅く保つ民とするために、神が許されていることのようです。
人道主義が蔓延している今の世界では受け入れがたいことですが、神の民は人道ではなく、神道を歩まなくてはなりません。
イエスが弟子たちに、ご自身が十字架につけられることを示すと、ペテロは「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなた(先生)に起こるはずがありません。」とイエスをいさめました。
ペテロは、イエスのことを心配し、イエスの不幸を望まずイエスに良いことが起こるようにと願ったからです。
「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。
『下がれ。サタン。(イエスを愛するペテロの心に働いて)あなた(サタン)はわたし(神に聞き従うイエス)の邪魔をするものだ。あなた(ペテロ)は神のこと(神の御計画)を思わないで、人(イエス)のことを思っている。』」(マタイ16:23)
神の御子イエスのことを思うことは罪なのでしょうか。いいえ、御子イエスが神に忠実に聞き従う歩みを妨げ、イエスの使命を実行させまいとする、サタンの言葉だったのです。
サタンは、ペテロのうちにあるイエスへの愛を足場にして、神の御心を捻じ曲げようとしたのです。ペテロの愛がサタンに用いられてしまったのですね。それは、神を土台とする愛ではなく、イエスを愛するペテロの愛だったからです。
人から出た愛は、神の御計画を邪魔するもの、妨げるものであり、神の御心に逆らう結果を生んでしまいます。
今の状況を許しておられる神の御心を求めましょう。
この戦いの中で、神は、各国から帰還したユダヤ人たちに、神の契約の民としてのアイデンティティーを植え付け、神がともにおられる民としての自覚を確立しておられるのではないのでしょうか。神がともにおられる神の民に回復させることです。ユダヤ民族の中心には神がおられなければなりません。彼らの先祖は、神に聞き従う民となると誓っているのです。
この戦いは、ユダヤ人たちの試みでもあり、世界中の人々の試みでもあると思われます。
人道主義が蔓延した世界で、だれが神を思うのでしょうか。神のことを思い、神が正しい方であることを証しする人はいるのでしょうか。人道主義の世界で、それを公にすることは難しい状況です。神を知らないこの世は、人を愛することを善と考えるからです。しかし、永遠に残される善は、神にへりくだることです。
アブラハムの子イサクは、ヤコブ(ユダヤ民族の父)を祝福しました。
「おまえ(ヤコブとヤコブの子孫、すなわちイスラエル)を呪う者は(神に)呪われ、おまえ(イスラエル)を祝福する者は(神に)祝福されるように。」(創世記27:29)
イサクは、父アブラハムが「あなた(アブラハムとアブラハムの子孫)を祝福する者をわたし(神)は祝福し、あなた(アブラハムとアブラハムの子孫)を呪う者をわたし(神)は呪う。地上のすべての民族は、あなた(アブラハムとアブラハムの子孫)によって祝福される。」(創世記12:3)と神からいただいた祝福を受け継ぐアブラハムの子孫です。
イスラエルは、アブラハムの祝福を相続しました。それゆえ、イスラエルを祝福する者を神は祝福され、イスラエルを呪う者を神は呪われます。
イエスは、ご自分の兄弟であり同胞であるユダヤ人たちにした良いことを覚えておられます。ユダヤ人を愛した者、ユダヤ人の友となった者に報いを与えられます。
「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」(マタイ25:34)
なんと、キリストの弟子でもないのに、ユダヤ人に親切にし、ユダヤ人を祝福した者は、神の子どもの仲間に入るのです。彼ら自身が神の子どもとされて、キリストとともに御国を受け継ぐのです。
ユダヤ人を憎み、批判する者、呪う者は、たとい、イエス・キリストを信じる者でも赦されません。彼らは、御救いから取り除かれます。神の御国に入ることはできません。
神は、火のような試みの中で、ユダヤ人を祝福する者と呪う者とをより分けられます。神のことを思う人と、人のことを思う人とに分けられます。
今は、そんな試みの時なのかも知れませんね。