ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

水の裁き 火の裁き 最後の裁き

 

 永遠に生きられる全能の神が、天地万物を創造し、人を造られました。御使いや天使もまた、この方の創造物です。すべてのものは、おひとりの神によって造られているのです。

 

 おひとりの神は、父なる神、神のひとり子、聖霊の三位一体の神です。御父と御子と聖霊の三つの位格を持たれる神格者です。三つにしておひとりの神です。

 

 神は、人を造られ、エデンの園に置かれました。エデンの園の中央には、いのちの木と善悪を知る知識の木がありました。神は、人に、善悪の知識を知る木の実を取って食べてはならないと命じられました。「その実を取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とも仰せられました。

 

 ほかの木からは、どの木からでも思いのまま食べてよい、と仰せられました。園にある多くの木々の中で、一本だけを禁じられました。たった一つの禁止命令でした。

 

 土地の塵から造られ、その鼻にいのちの息を吹き込まれて生きものとなった人は、園を耕して、先に神が創造された海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配する者だったのです。

 人はすべてのものの支配者ですが、人のかしらは、神のことば(神のひとり子)でした。すべてのものを支配する人を支配するのは、神のことばなのです。

 

 すべての被造物は、人に従います。その支配権が人にあるからです。人は神のことばに従います。人を支配する権利が神のことばにあるからです。神(父なる神)と、神のことば(子なる神)とは、ひとつのものです。

 人が神のことば(御子)とひとつならば、人は神(御父)ともひとつのものです。

 

 神の指令は、神のことばであり、人のうちにあるいのちの息(神の霊)なのです。人のうちにあるいのちの息は、神のことばとひとつであり、神のことばと神とはひとつなのです。

 

 神は、人に、いのちの木の実は禁じておられませんが、善悪を知る知識の木の実については、「食べてはならない。それを食べる時、必ず死ぬ。」と仰せられました。

 いのちの木の実を食べるならば、生きたまま天に上げられたエノクのように、天上の人に変えられていたのかもしれませんね。

 

 神のことば(命令)に従っているうちは、人は神とひとつでした。人のうちには、神のいのちの息が無限にありました。

 

 善悪を知る知識の木の実は、神のものではありません。いのちを与える木ではなく、自分を神とする木です。神の支配に反抗する木です。神に反逆する悪魔に似た者となる食べ物です。

 

 もし、人に従うはずの生き物が、善悪を知る知識の木の実を食べて、自分で判断し行動するようになるなら、人の統制に逆らうことになり、秩序は乱れます。

 優劣の意識のなかった被造物が善悪を知る知識の木の実を食べるなら、他のものと比較して自分を見るようになるのではないでしょうか。そこで、優越感と劣等感が芽生え、感情の衝突と争いを生み出すのです。

 

 人は、神に対してそのようなものとなってしまいました。かしらとは異なる意見を持ち、秩序を乱し、不調和なものとなったのです。調和しないならば、もはやひとつではありません。

 

 被造物を支配するはずの人が自我を持つと、被造物もまた、支配者(人)にならって、自分勝手になりました。人が神の言うことを聞かないように、生き物たちもまた、人の言うことを聞きません。人が神に逆らうならば、被造物もまた、人に逆らうのです。アダムの罪は、被造物全体に及びました。

 

 人のうちにあった神のいのちの息は、神のことばとひとつでない人のうちに、留まれなくなりました。いのちの息(神の霊)は、神のことば(神の御子)とひとつのものだからです。神のことばのない所に留まることはできないのです。

 

 神は仰せられました。

 「わたし(神)の霊は、永久には人のうちに留まらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」(創世記6:3)

 

 エデンの園から追放された人が地上に増え始めると、人の娘たちを慕う神の子ら(おそらく、天から追放された堕天使たち)が、自分の妻にして、彼らに子どもができました。

 地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になると、神は、地上に人を造ったことを悔やみ、御自身が創造された人を地の面から消し去ることを決められました。

 

 地上に罪が満ちると、神は、ノアの家族を残し、地上のすべてのものを大水(大洪水)で滅ぼされました。神は、世を、水でさばき、滅ぼされました。

 

 その後、水で洗いきよめた地の上に、人類の歴史を、残りの者であるノアの家族から、再スタートされました。そして、神は、善悪を知る知識の木の実の呪いの死を、人類にもたらした悪魔を滅ぼすために、神のひとり子を、世に遣わされました。神のひとり子は、神のことばであって、人のかしらなのです。

 

 人のかしらである神のひとり子は、神に反逆し破壊する悪魔を踏み砕き、善悪を知る知識の木の実の呪いを砕いて、罪に落ちた(善悪を知る知識の木の実を食べ、まことのかしら〈神のことば〉を失った人)を、死の呪いから解き放ち自由にするために、罪の贖いの神の子羊イエスとなられました。子羊イエス・キリストは、罪人の代わりに罪の呪いを受けて死に、贖いの血を、父なる神のみもとに携え上られました。

 

 神は、子羊イエスの贖いの血を受け入れ、国と光栄と主権とをお与えになりました。神から主権をお受けになられたキリスト・イエスは、イエス・キリストの救いを信じる人々に、真理の御霊(もうひとりの助け主)を授けられます。

 

 神は、罪人のいのちの息を取り去るために、齢を定められました。こうして、すべての人は、寿命が定められ、必ず死ぬのです。

 しかし、神は、人のかしらである神のひとり子、子羊イエスの血によって、罪人の罪を贖い、罪を赦し、義とされます。もはや、悪魔は彼ら(キリストの血によって贖われた人々)を訴えることができません。

 神から主権を受けられたキリスト・イエスは、神の御子イエス・キリストの御名を信じる、ご自分の弟子(師であるイエス・キリストから学ぶ人)たちに、真理の御霊をお与えになります。

 

 罪人は、死とともにいのちの息が離れて行きます。しかし、キリストの御霊を受けた人々は、死んでも甦り生きるのです。永遠の死は、御霊(永遠のいのち)を飲み込むことができないのです。

 

 悪魔の時間には限りがあります。悪魔は罪人たちに知恵を与え、力を与えて、神の民を滅ぼそうとしますが、かえって、その働きによって、本当の神の民が明らかになります。御霊によって、新しく創造される新生した人々が、信仰によって勝利するからです。

 神は、新しい創造の御霊の教会の人々を、滅びの世から救い出されます。

 そして、世を暗くし、悪いものにした破壊者や闇の子らを滅ぼされます。

 

 地上に、イエス・キリストが来られ、贖われた人々を集め、イスラエルの王となって、世界を治められます。悪魔は千年の間、縛られ、千年の後に、解き放たれます。すると、悪魔は、世界を行き巡り、人々を惑わします。

 

 罪の贖われていない人々(イスラエルの王にへりくだらない人々)はみな、悪魔に惑わされ、戦いのために神の都を取り囲みます。すると、天から火が降って来て、彼らは焼き尽くされます。

 

 「千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグ(千年王国の間、イスラエルの王から遠く離れたゴグとマゴグには贖われていない原罪のままの人々が暮らしていました。)を惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海辺の砂のようである。

 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営(イスラエル王国)と愛された都(エルサレム)とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。

 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣(反キリスト)も偽預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示録20:7-10)

 

 ノアの時代に、罪に満ちた世を「水」で裁かれた神は、終わりの日には、悪に満ちた世を「火」で裁かれます。

 

 その後、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方(裁き主)によって、「最後の裁き」が執行されます。地も天も(現象の世界は)跡形もなくなります。

 死んだ者もすべて、神の御前に立ちます。そして、羊(神の民)と山羊(悪魔の民)、麦(キリストの民)と毒麦(悪魔の民)とに分けられます。

 

 永遠のいのちを得る羊の民と麦の民とは、天の御国にはいり、神の子羊をたたえ、神を崇めて、永遠の安息にはいります。イエス・キリストの御救いは実現し完成します。

 

 人々はおのおの自分の行ないに応じて裁かれます。

 「それから、死(死者の国)とハデス(暗い陰府)とは、火の池(ゲヘナ、永遠に燃え盛る火の池、地獄)に投げ込まれた。これが第二の死(永遠の死)である。

 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(このゲヘナは永遠の裁きであり、ここから抜け出せる者はだれもいません。)」(黙示録20:14,15)

 

 こうして、聖書に書かれていることは、ことごとく成就しました。

 

 これらの世の推移は、聖書に書かれている、この世のおおまかな流れです。

 神に創造された人の堕罪、人の罪が増し加わり悪いものとなった世は水の裁きを受けてリセットされ、次の火の裁きに備えて、神はキリスト(救世主)を遣わされました。そして、神は、罪の贖われた民を集めて、キリストを王とするイスラエル王国を地上に起こされます。アブラハムが夢見た神の都が世に現われるのです。それは、争いのない平和な世界です。それは、千年の間、続きます。

 千年の後、縛られていた悪魔が解き放たれると、贖われていない人々(都の門に入ることが許されず、いのちの書に名が書かれていない人々)は悪魔に従い、神に立ち向かって戦いのために神の都を取り囲みます。そして、イスラエルの王の民に属さない者たちはみな、天から降って来た火で焼き尽くされます。こうして、水の次は、火で滅ぼすと言われた神のことばが成就します。

 その後、目で見ていた現象の天と地は跡形もなくなり、最後の裁きが行なわれて、アダムとエバから始まった全人類は、永遠のいのちを得て天の御国に入る者と、永遠の死を宣告されて永遠に燃え盛る火の池に入る者とに分けられます。

 永遠のいのちを得た魂も、永遠の死に定められた魂も、終わりがなく、とこしえに存在し続けるのです。

 

 神は、ひとりひとりの人生の中にも、この世の推移と同様なものを御覧になっておられます。

 人は、お母さんから生まれ、生きたものとなります。

 自分のうちに原罪(煩悩)を認め、苦しみます。そして、死を生む罪の呪いからの解放を求めます。

 罪を悔い改め、水のバプテスマ(悔い改めのバプテスマ)を受けます。

 イエス・キリストの十字架の愛にすがり、聖霊のバプテスマにより御霊を受けて、神を愛する新しい人として新生します。そして、罪から離れる新しい創造を受けます。

 神との交わりに入り、火のバプテスマを受けて罪の性質が砕かれ、神の子どもの性質に新しく造り変えられて行きます。

 そして、神の子羊イエス・キリストの血の贖いにより義とせられ、御霊(永遠のいのち)を受けて裁きが免れて天の御国に入り、永遠の安息に入るのです。

 

 神の御子イエス・キリストの物語は、永遠のいのちを得て神の子どもに新しく生まれ、天の御国に入る神の御子イエス・キリストの兄弟たちを創造するためでした。