ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

贖われた者

 

 「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。

 楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(イザヤ35:10)

 

 喜びながらシオン(イスラエルの王〈神の子羊イエス〉の国)に入る者たちは、主に贖われた者です。彼らの頭にはいのちの冠があり、とこしえの喜びをいただいています。

 とこしえの喜びですから、とこしえの救いを得る人々のことですね。世の滅びから救われた人々です。

 

 「贖い」とは賠償することです。

 奴隷として売られた人や敵に捕えられた人を、身代金を支払って買い戻すことが本来の意味のようです。キリスト教では、罪の償いをすることを言います。

 敵(悪魔)に捕えられてしまった人々は、何も持っていないのです。自分で身代金を支払うことができません。そこから出ることができないのです。じたばたしても、悪魔の手から逃れることができません。

 

 自分の外に、また、悪魔の牢の外に助けを求めるしかありません。

 しかし、なんということでしょうか。人類はみな、この牢に入っているのです。自分一人だけではありません。すべての人が、生まれた時からこの牢の中です。正確に言えば、この牢の中で生まれているのです。

 

 世そのものが、悪魔が仕掛けた牢なのです。しかも、人類は、必ず死ななければならない死刑囚なのです。

 人は、悪魔の手に落ちて、うめいています。

 なぜならば、人の初めは、悪魔の性質ではなかったからです。人には神とつながる霊なる部分が造られています。最初の人アダムが持っていた、神との交わりです。

 人は、造られた本来の目的の機能を果たしていないのです。それゆえ、理由もなく、生まれながら、「違う。違う。私の居る場所はここではない。」という、うちなる声を持っているのです。何かが違うのです。しかし、答えは見つかりません。

 

 「われわれ(御父、御子、聖霊)に似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」(創世記1:26)と仰せられた神によって、人は造られています。神のいのちの息を吹き込まれて生きものとなりました。

 

 「万物は御子にあって造られました。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

 神子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:16,17)

 

 私たちが見ている世界にあるもの、天も地も植物も生き物も、自然と呼んでいるすべてのものは、神(創造主)が造られました。

 神とは、天の神であられ、御父、御子、聖霊の三位一体の神のことです。神は、永遠の昔から存在しておられ、「わたしはある」と名乗られます。

 すなわち、御自身は永遠の昔から、また、これからも永遠に生きられるいのちの主です。すべてのものは、神によって創造された被造物であり、被造物が存在しているのは、創造主である神が保っておられるからなのです。

 すなわち、神は永遠のいのちであり、すべてのもののいのちの根源であり、すべてのものの存在の源であり、存在の理由である方なのです。

 

 主は、仰せられます。

 「わたし(神)は光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」(イザヤ45:7)

 

 人は、御父が御子のために、御子とともに造られました。御子のために造られた人が、御子に反逆し神を憎む悪魔に捕らえられてしまいました。

 

 長い間、牢の中でいのちを繋いできた人類は、牢の中が世であり、人生だと思うように飼い慣らされています。人は神の作品であって、創造主がおられるという意識は、ほぼなくなりました。

 

 しかし、神の御子は、ご自分のために造られた人を見過ごしにされません。神は、悪魔の牢の中にある世に、アブラハムを見出し、アブラハムとサラの一体の人(一組の夫婦)に、御子による救いの契約を結ばれました。彼らの子孫に、御子(メシア)を遣わされるのです。

 

 救う者は、悪魔よりも強い者でなければなりません。その者は、悪魔の牢の中には、おりません。救いは、牢の外からもたらされるのです。

 

 悪魔に捕らわれた人の身代金は、贖いの血です。血はいのちです。いのちには、いのちをもって買い戻されるのです。

 本来、罪人は、罪の償いをしなければなりません。しかし、世の人々は、自分が牢の中にいることを知りません。ましてや、自分に罪があるなどと思ってはいません。

 

 ノアの時代にノアがいたように、アブラハムの時代にアブラハムがいたように、世には、神が契約を結んだアブラハムの子孫、ヤコブの子ら(ユダヤ民族十二部族)がいます。

 

 ノアの時代、神が世を水で滅ぼされた時、ノアとノアの家族が救い出されました。神は、終わりの日に、世を火で滅ぼすことを定めておられます。そして、その火の裁きからヤコブを救い出すことも決めておられます。

 ヤコブは、神と人と戦って勝利して、神の祝福を受けた人です。それゆえ、神は、ヤコブを、イスラエル(神と人とに勝利した者の意)と呼ばれます。

 

 イスラエルは、神から祝福を得るために戦い、勝利した信仰の勝利者です。

 悪魔の牢である世に、神は、神の子羊を遣わされました。ヤコブ(イスラエル)に遣わされました。天から神の御子が世に来られ、イスラエルを救い出されるのです。

 

 悪魔の食べ物は罪です。罪を見出すことのできない者には、悪魔の喜びはありません。悪魔を喜ばせないものを、悪魔は憎みます。神を喜ばせるものは、悪魔にとって忌むべきものです。神に背を向け、創造主を信じない人々は悪魔の仲間です。

 

 さて、天から神の御子(神の子羊イエス)がやって来られました。女から生まれる人の子としてやって来られました。どう見ても、人です。肉体を持ち人としてユダヤ人の間で過ごされました。女から生まれ、弱い赤子として来られたのです。

 

 しかし、彼はキリスト(救世主)でした。神の時に、水のバプテスマを受けて神の働きに入られました。神は、聖霊を下らせ、彼の上に留められました。

 キリストは、イスラエルを巡り、ユダヤ人たちに、父なる神について、天の御国について、永遠のいのちについて説いて回られました。ユダヤ人のある人々は、忘れていた遠い記憶にある創造主に出会い、神に立ち返りました。

 

 彼ら(イエスの弟子たち)は、父なる神こそが人の存在の原因であるのに、罪が隔てていたことを知りました。罪が真理を見えなくさせていたのです。それゆえ、悪魔の牢の中で、(何故、人は死ななければならないのだろう。)という疑問を抱えたまま、死んで行くのです。

 「死」が本来の姿ではないことを、人の霊が捉えているからです。

 

 神がアブラハムに約束された救いは、アブラハムの子孫ユダヤ民族の地で流された神の子羊の血でした。

 神は、イスラエルの罪を子羊の血で贖われたのです。イスラエルは自分で罪を償うことができません。人にはできないのです。悪魔は牢から決して出してはくれないのです。

 

 しかし、人の子となられた神の御子、すなわち子羊イエスは、ご自分の血によって、イスラエルの罪を贖い、悪魔の牢にいるヤコブのために身代金(いのちの代価)を支払って、子羊の血(ご自分のいのち)によって買い戻されました。

 

 イエス・キリストの血によって買い戻された者は、悪魔の牢から出ることができます。キリストの血によって、神と和解することができます。それが、贖われた者です。

 

 「主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。」(エレミヤ31:11)

 

 ヤコブがイスラエルと呼ばれる意味を考えてみましょう。神と人と戦い勝利した者です。

 キリストの十字架は、世界中の人々に見えるように、高く掲げられています。十字架のイエスは、神の祭司の民ユダヤ人が世の罪の贖いのために屠った神の子羊なのです。

 信仰を勝ち取った者はみな、イスラエルです。アブラハムの血肉の子孫だけではありません。アブラハムの信仰の子孫もイスラエルなのです。異邦人は、信仰によって、アブラハムの子孫に加えられます。

 

 イエスは十人のらい病人を癒されました。「イエスさま、先生。どうぞ憐れんでください。」と彼らが言ったからです。イエスは「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われました。彼らは、行く途中で癒されました。

 そのうちの一人は、自分が癒されたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返してきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝しました。彼はサマリヤ人でした。九人のユダヤ人は神を崇めるために戻って来ませんでした。(おそらく、祭司に自分を見せて、らい病が癒されていることを確認し喜んだことでしょう。)

 イエスは帰って来たサマリヤ人に言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(ルカ17:19)

 

 イエスは、九人のユダヤ人が戻って来ないのを嘆かれました。

 「十人癒されたのではないか。九人はどこにいるのか。

 神を崇めるために戻って来た者は、この外国人(サマリヤ人)のほかには、だれもいないのか。」(ルカ17:17,18)

 

 病気が癒されても、神に感謝し、神に立ち返らないならば、購われた者ではありません。贖われた者は、神に立ち返る者です。神との和解が成立する者です。

 

 神は、贖われた者に歩む道を備えておられます。

 「その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者(子羊の血によって贖われていない者)はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人(救いの雰囲気を味わうだけの者)も愚か者(真理を悟らない者)も、これに迷い込むことはない。」(イザヤ35:8)

 

 イエス・キリストを信じる者は、神をほめたたえ、主イエス・キリストに感謝し、贖われた者たちの聖なる道を歩んでまいりましょう。

 

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 これらのこと(神の子羊〈イエス・キリスト〉の血による贖いと御霊による新しい創造)はすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちを御自分と和解させ、また和解の務め(イエス・キリストの福音を伝え、神との和解の和を広めていく働き)を私たちに与えてくださいました。」(コリント第二5:17,18)

 

 贖われた者は、イエス・キリストの父(創造主)と和解した者なのです。