エデンの園に置かれた人に、神は仰せられました。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16,17)
その後、神は、人に深い眠りを下され、人が眠っているうちに、人のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれました。神は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られました。
「すると、人は言った。『これこそ、ついに、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。』」(創世記2:23)
人は、自分の骨から出、肉から出たものを得ました。人は、自分をアダム、アダムから取られた女をエバと呼びました。アダム(男)もエバ(女)も、もとはひとつのからだ(人)から分かれた一体でした。
「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」(創世記2:25)
エデンの園は、創造主を知る世界です。被造物は創造主を知り、創造主のいのちの栄光を現わしていました。創造主であられる神が治められるいのちの園でした。
被造物はみな、神の愛に包まれていました。すべてのことは神から発せられ、神によって成り、祝福で満ちていました。被造物は創造主を喜び、造られたままの姿で互いを喜び合っていました。
神とぴったり一つであり、調和がありました。神の愛が被造物の愛であり、神の喜びが被造物の喜びであり、神の平安が被造物の平安でした。乱すものはありません。みなが神とひとつだったのです。
天から追放された堕天使長は反逆者でした。天地万物が創造される以前から、闇の中にいました。神のようになりたいと野望を抱く悪魔です。
天から追放された悪魔は、神が闇に造られた天地万物を巡り、海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配するようにと神から仰せつかった、エデンの園の人(管理者)を惑わして、園の支配者をひきずり落とすことをもくろみました。
悪魔は、人から取られた女をターゲットにしました。人(アダム)は、神との交わりを持つ者です。女は、アダムに聞く者です。悪魔は、神とのつながりの弱点をエバに見ていたのでしょう。
パウロは言います。
「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリスト(神の御子)のかしらは神(父なる神、創造主)です。」(コリント第一11:3)
神は、アダムに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」と命じられました。アダムは、神のことば(神のひとり子)につながっていました。エバは、アダムから聞いたアダムの言葉(神のことば)につながっていました。
エバが蛇の言葉を受け入れて、アダムの言葉から外れたとき、エバは、アダムの覆いを失いまいた。
エバを愛したアダムは、善悪の知識の木の実を食べたエバのからだに変化がないのを見ると、エバとともにいることを選び、エバの言葉を受け入れて、神のことば(神のひとり子)から外れました。神のことばから外れたとき、アダムは、神のひとり子(神のことば)の覆いを失いました。そして、かしらなる神を失ったのです。
こうして、人は、いのちの神から外れ、神の覆い、神のいのちを失ったのでした。
ヨハネは、「神のひとり子」キリストのことを、「神のことば」と表現して、語っています。
「初めに、ことば(神のことば)があった。ことばは神(全能の生ける神)とともにあった。ことばは神(神格者)であった。
この方(神格を持つことばである神のひとり子)は、初めに神(父なる神)とともにおられた。
すべてのもの(被造物)は、この方(神のことば)によって造られた。造られたもので、この方(神の御子キリスト)によらずにできたものは一つもない。
この方にいのち(永遠のいのち)があった。このいのち(真理の御霊)は人の光(永遠の希望)であった。
光(永遠の希望)は闇(死者たち)の中に輝いている。闇(悪魔、すなわち死者の国、闇の国の王)はこれ(神の御子キリスト、すなわち神の永遠のいのちの国、光の国の王)に打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:1-5)
神のことばから外れ、かしらなる神のひとり子(キリスト)の覆いを失った人(かしらを失った人)はみな、罪ある者です。罪の性質を持つエバが生む子どもはみな、罪の性質をもって生まれて来ます。
生まれつき罪のない聖なる人はひとりもいません。
「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)
すべての人は死にます。
「女(エバ)はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫(アダム)も食べた。
このようにして(神に禁じられていた善悪の知識を知る木の実を食べて)、ふたり(アダムとエバ)の目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3:6,7)
霊の目で見ていたふたりは、善悪の知識を知る木の実を食べると、霊の目が閉じ、肉の目が開かれました。肉の目に見えること、すなわち現象が彼らの実体となったのです。
肉の目に見えない神を実体としていたアダムがその実を食べると、肉の目が開き、肉眼で見える現象(自分)が実体であるという意識に取り変えられました。神の意識で存在していた人が、自分の意識を持つようになったのです。霊が死に、肉が生きる者となりました。心の王座に神(創造主)のおられない、自我となったのです。
そして、自分を恥じる意識を得、それを隠して偽る意識が芽生えました。悪魔が蒔いた種(不義)が人のうちに根を生やし、罪を犯す根(原罪)を持ち、悪魔に支配される者となりました。原罪(罪の性質)は、悪魔の住まいです。
アダムが罪を犯すと、かしら(神のひとり子)を失った男をかしらとする女、また、人に支配される被造物もすべて、人のかしら(神のひとり子〈キリスト〉)の、そのまたかしらの神を失ってしまいました。アダムの罪は、すべての被造物を神から引き離す結果を招きました。すべての被造物に、死が入りました。
ひとりの人(アダム)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がりました。全人類は罪を犯したのです。
知恵者は言います。
「この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいない。」(伝道者7:20)
このことを知るダビデは、神に祈ります。
「あなたのしもべにさばきをかけないでください。生ける者はだれひとり、あなた(神)の前に義と認められないからです。」(詩篇143:2)
原罪のある人は、だれひとり神のみもとに行くことができません。
神は、光であって、神のうちには暗いところが少しもない方、義なる方、聖なる方です。光の神のところへ行くためには、人は光のうちを歩む者にならなければなりません。義なる神に受け入れられるためには、人は義なる者とならなければなりません。聖なる神の国に入るには、人は聖なる者とならなければなりません。
この神と人とを隔てる原罪の問題を解決された方がおられます。神は、人類の救いのために、救い主を遣わされました。救いとは、永遠の死と滅びからの救いです。罪の贖いと、罪の赦しと、永遠のいのちを得させるための神の憐れみです。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10-12)
神は、アダムのかしらであった神のひとり子を、神の子羊として、人にお与えになりました。神は、神が遣わされた神の子羊イエスの血による罪の贖いを成し遂げられました。
神の子羊イエス・キリストの血は、すべての罪を贖い、罪を清算し、義とします。イエス・キリストを信じる人はだれでも、罪が贖われ、罪を赦されて、神に義人とされ、キリストの御霊を飲んで、聖なる者に造り変えられます。
神は、原罪を処罰し、原罪をきよめ、贖われた人を神の子どもに造り変えて、永遠のいのちを得させられます。神のひとり子イエス・キリストがかしらとなられるからです。
罪の贖われた者たちは、神の国に入ります。
しかし、罪が贖われておらず、キリストの血によって洗われた白い衣を着ていない者は、原罪が残ったままです。
これから、原罪のままの人と、贖われた人とは、はっきりと区別されます。
七年の患難時代を経て、世はがらりと変わります。
イエス・キリストが地上に来られ、千年の間、世界を治められます。その世界には、悪魔はいません。悪魔は、千年の間、縛られているからです。
しかし、千年の時が満ちると、悪魔が解き放たれます。すると、原罪のままの人(罪の性質の人)は悪魔に従い、神の都に攻め上り、天からの火で焼き尽くされます。
千年の間、悪魔がいなかったので、平和でした。平和な世界に罪人は存在しないのかというと、そうではありません。悪魔が現われると、アダムから受け継ぐ生まれつきの人、すなわち原罪を持ったままの人は、悪魔に惑わされて神に立ち向かい、悪魔のわざをするのです。
子羊イエスの血は、悪魔の足場の原罪を洗い流し、きよめ、罪を取り除いてくれるのです。千年王国の最後で、悪魔が解き放たれても、罪の贖われた人は、決して悪魔に従いません。