ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

不正の富に忠実

 

 イエスは、取税人や罪人たちに話をするイエスを見てつぶやくパリサイ人、律法学者たちに言われました。

 「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」(ルカ16:10-12)

 

 人は大きな事にわくわくして、小さな事を軽んじる傾向がありますが、小さい事を積み上げて大きい事へと成長して行くものです。小さい事は、大きい事の基礎だからです。基礎の確かでない働きは、途中で投げ出したり、手抜きをして崩れ落ちたり、あるいは完成しても高ぶって神に罪を犯す結果を招きます。

 神のための働きなのに心が神から離れて、自分自身の(永遠の)いのちを失いかねないのです。

 

 不正の富(地に属する富で天の宝とならない富)に忠実であることは、まことの富(神がお与えになる天の賜物)を任せても良いという、信頼できる性質の傾向を持つというのです。性格の本質が誠実で実直であるということです。

 

 他人のものに忠実である人に、神は管理する能力を認め、その人に神の賜物をお任せなさるのです。

 

  イエスは、これらの発言の前に、たとえ話を話しておられました。

 「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えがだされた。

 主人は、彼を呼んで言った。『おまえ(管理人)についてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』

 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私(良くしてやった管理人)を迎えてくれるだろう。』

 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼(管理人)は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。(管理人は、主人の債務者に、返済分を半分に減らして楽にしてやり、恩を売りました。)

 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼(管理人)は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。(管理者は、主人の債務者に、百バテの返済を八十バテに減らしてやり、恩を売りました。)

 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜け目がないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜け目なくやったのをほめた。

 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」(ルカ16:1-9)

 

 神に背を向けるこの世の子らは、自分たちの世のことについて自分の身を守るために抜け目がありません。神の武具を与えられている光の子らよりも抜け目なく、自分たちの脱出の道を計算しています。主人(神)が、不正な管理者がこうも抜け目なくやったのをほめたくらいです。

 

 この緻密な計算をした不正な管理人ですが、主人から管理人の仕事を取り上げられた後、本当に、返済分の一部を免除して恩を売った債務者たちの家に招いてもらえるでしょうか。

 

 放蕩息子のたとえ話を思い出してみましょう。

 財産の分け前をもらって遠い国に旅立ち、父からもらった財産を、愉快に過ごして乱費した息子の話です。息子は、放蕩して湯水のように財産を使ってしまいました。何もかも使い果たしたあとで、その国に大飢饉が起こり、彼は食べるにも困り始めました。豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほど飢えていましたが、だれひとり彼に与えようとはしませんでした。

 

 財産をばらまいていた遊び仲間たちは、だれひとり彼の友ではなかったのです。財産を失い、だれもいなくなったとき、彼は、父の家を思い出し、我に返りました。

 「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。

 立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』」(ルカ15:18,19)

 

 すべてを失い、頼みをなくしたとき、放蕩息子は我に返って、自分の罪を認め、悔い改めたのです。

 不正の富で、友だちをたくさんつくったとしても、富がなくなれば、人々はいなくなります。その時、初めて、人々が周りにいたのは、自分の財産が目当てであったことに気づきます。彼らは、本当の友ではなかったのです。私利私欲の偽善を隠す仮面をかぶった欲深い人々にたかられていただけだったのです。

 

 その時、我に返り、自分の愚かしさと罪を悔い改め、まことの父(神)に立ち返るならば、その人は、天の御国に迎え入れられる神の子どもとなります。友と信じていた人々に捨てられ、すべてを失うことは、結果的に、その人の魂が永遠のいのちを得る恵みの入口となるのです。

 ですから、不正の富に忠実であることは、その実直な心が折れたとき、まことの富を与えてくださる父なる神への道が開かれることになるのです。

 

 父は迎え入れてくれるのでしょうか。

 帰って来る放蕩息子を見て、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って帰って来た息子を抱きしめました。父は、放蕩息子が帰って来るのを待っていたのです。

 

 父は、悔い改める放蕩息子をなじったりはしません。放蕩息子が帰って来たことをただ喜び祝い、彼を息子として迎え入れました。

 父は思いました。死んでいたのが生き返って来た。いなくなっていたのが見つかった。そして、父は、帰って来た息子を楽しんで喜びました。

 

 不正な富に忠実であるということは、あまり聞こえが良くないように思われますが、不正な富に忠実な者が神に立ち返ったとき、彼は、全身全霊で神に仕える忠実なしもべとなるのです。

 

 律法に厳格で主イエス・キリストの弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃える熱心なパリサイ人であったパウロは、生ける神を知らないとき、神の御子を迫害する者でした。

 しかし、ユダヤ教に熱心だったパウロを、イエス・キリストは選ばれました。パウロは、目の覆いを取り除かれ、真理の御霊によって、ナザレのイエスが神の子キリスト(救い主)であることを悟ったのです。

 

 真理の光によって、パウロの暗い思い(律法の覆い)が取り除かれると、ユダヤ教に熱心であったパウロの熱意は、神の御子イエス・キリストに熱心に仕える主のしもべとしました。パウロのうちにある神への熱心は、真理の御霊によって、正しい道での熱心に変えられました。

 パウロのうちにある熱意は、律法の神から、生ける神に移し変えられたのでした。

 

 キリストの弟子たちに殺意を持っていたパウロは、神の御子イエス・キリストの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、復活のキリストの器とされました。また、パウロは、イエス・キリストの御名のために、迫害され、命を狙われ、苦しむ者となったのでした。