ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

どのように神は私たちを愛されたのですか

 

 「『わたし(万軍の主)はあなたがた(イスラエル)を愛している。』と主は仰せられる。

 あなたがたは言う。『どのように、あなた(天の神)が私たち(神の民)を愛されたのですか。』と。」(マラキ1:2)

 

 四百年間の奴隷の家エジプトの家から救い出されたイスラエルは、そのことを記念して毎年過越しの祭りを祝っています。

 しかし、それはモーセの時代に起こったことです。過越しの祭りを行なうことで、出エジプトの記憶がユダヤ民族の脳裏のうちに刻まれていますが、自分たちの世代に神は何をしてくださったのでしょうか。

 

 主は彼らの問いに答えられます。

 「エサウ(エドム人の父)はヤコブ(ユダヤ民族の父)の兄ではなかったか。

 ―主の御告げ。―わたし(全世界を所有する天の神)は(神と戦い人と戦ってアブラハムの契約と祝福を勝ち取った)ヤコブを愛した。

 わたしは(アブラハムの契約を軽んじる軽率な)エサウを憎み(イサクの長子エサウを相続者の座から退け)、彼(エサウ)の山(所有地)を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。(獣の霊の住む地とした。)

 たといエドムが、『私たちは打ち砕かれた。だが、廃墟を建て直そう。』と言っても、万軍の主はこう仰せられる。

 『彼ら(エドム人)は立てるが、わたし(いのちの主権者である主)は打ち壊す。(万軍の主であられる神はエドム人のわざを成功させられない。)彼ら(エドム人)は、悪の国(悪者の国)と言われ、主のとこしえにのろう民(獣の霊の民)と呼ばれる。』

 あなたがた(ユダヤ人)の目はこれを見て言おう。『主はイスラエルの地境を越えて偉大な方だ。』と。(ユダヤ人たちは、ヤコブ(イスラエル)とエサウ(エドム人)を区別されるイスラエルの神のわざを見て、イスラエル国だけでなく、ほかの国にまで及んで治められる偉大な神であることを知るであろう。)」(マラキ1:2-5)

 

 アブラハムの神、全能の生けるまことの神は、イスラエルを選び、イスラエルの神と名乗られました。

 しかし、イスラエルの神は、天地万物を造られた全人類の神でもあられるのです。すなわち、すべての民族、国々の善悪をはかり魂の値打ちを調べ上げ、正義をもってさばかれる主です。

 

 第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けた日本は、驚異的な復興を遂げ、経済大国に返り咲きました。地震、津波、大雨、台風、疫病などにもすぐれた回復力を見せています。神が祝福しておられるのでしょう。

 

 多くの災害に見舞われながらも、豊かな自然が新しい希望へと日本人の心に希望の灯を灯してくれます。荒廃することがありません。

 長崎の原爆投下後、数十年は不毛の地となるとされていたのに、道端に花が咲きました。神は、長崎の大地からいのちを取り除かれませんでした。人間の策略で被爆した地に、神はいのちを生み出されたのです。

 

 神は、祝福するものと、呪うものとを区別しておられるようです。神が良いと思うものには、灰と化しても再び復興させて祝福されます。打たれても立ち上がらせられます。

 神が呪うものは、民族が途絶え、国を失います。

 神は、すべての民族を御覧になられ、また、すべての国の国民の魂を調べられ、その値打ちにしたがって祝福を与えておられるようです。

 

 多くの国々、民族に分かれていますが、もとは一つです。すべての人は、最初の人アダムの子孫であり、水の滅びから救い出されたノアの子孫です。

 

 そして、神はおひとりです。永遠の昔からおられる霊なる神、全能の主です。

 天地万物を造られた創造主であり、すべてのものを見張りその魂の値打ちをはかり、さばくお方です。

 

 神は、聖であって義なるお方です。光の主、いのちの主です。人は、この方によって造られました。この神が、人の存在している理由であり、目的なのです。

 

 最初に造られた人は、神に敵対する悪魔に騙され、ずる賢い蛇の言葉に従い、神のことばを失いました。

 決して食べてはならないと神に命じられた、悪魔の言葉を食べたのです。悪魔の言葉を食べた人は、悪魔の行ないをしました。神にそむいたのです。

 

 人は神と、いのちのことばによって結ばれていました。しかし、神に背いた人は、死のことばによって悪魔と結ばれてしまいました。

 神は、アダムに「善悪を知る知識の木の実を食べるなら必ず死ぬ。」と仰せられました。それゆえ、「中央の木からは取って食べてはならない。」と命じておられたのです。

 

 アダムが神に背き罪を犯すと、死がはいりました。罪の報酬は死だからです。人は、天から追放された天使長(悪魔)の罪を、ともに負う者となりました。それで、人は、神が悪魔のために設けられた永遠の火の池に悪魔とともにはいる運命を背負いました。

 

 人は悪魔に騙されたと言っても、神に罪を犯した加害者です。神は、悪魔からも人からも傷つけられた被害者です。

 

 罪に堕ちたアダムから始まった人類の中には、悪魔の言葉があり、悪魔の行ない(そむき、争い、敵対、怒り、憎しみ、妬み、盗みなど)があります。生まれつき、罪のある者です。罪人として生まれ、生まれながら、死の宣告を受けています。

 

 人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることとが定まっています。死ぬことはすべての人が知っています。生まれて来たものは必ず死ぬからです。

 しかし、死後の裁きについては、死んだ人が生き返って教えてくれないので、よくわからないというのが現状です。

 

 神は、人を創造されたとき、永遠への思いを与えられました。死んだ後、どうなるのだろうという思いが与えられています。また、死にたくないという思いが与えられています。

 

 天地万物を造られた神には、目的があります。神に敵対する悪魔と悪霊どもを永遠の火の池にいれて滅ぼすことです。悪魔が滅ぼされることはあらかじめ定まっていました。

 ところが、神の望まないことに、世界を治めるために造った人が悪魔の手に落ち、死ぬものとなってしまったのです。

 

 神のことばにそむき、御名を汚して神に罪を犯した加害者である人間を、神は火の池の裁きから救うことを御計画されました。しかも、アダムが善悪を知る知識の木の実を食べた直後に、そのことを定められました。

 女のすえに、キリストを遣わすことを定められたのです。女とは、蛇に騙されて罪に堕ち、アダムにも罪を犯させたエバのことです。

 

 このエバから人類が生まれました。ノアの時代、罪に満ち暴虐に満ちた世を水で滅ぼされた神は、ノアから始まる新しい世を打ち立てられました。そして、ノアの子セムの子孫にアブラハムを見出され、アブラハムと契約を結び、アブラハムの子孫イスラエルを創造されました。神は、このイスラエルとともにおられ、イスラエルから約束のキリストを生み出されたのです。

 

 イエス・キリストは、死と死後の裁きが定められている罪人(人類)を火の池の裁き(悪魔に用意された永遠の滅び)から救い出すために来られた神のひとり子でした。

 

 人(加害者)を赦すために、神(被害者)が御自身のひとり子を罪人の身代わりに処刑し、御子イエスを加害者の罪の代わりに処罰されました。神は人の子(人類を代表する人として肉体をもって遣わされた御自分のひとり子)を、死によらなければ赦されない死刑囚とされて、加害者である人の罪を帳消しにされたのです。

 被害者(神)みずからが、加害者(人類)の受けるべき罰を受け、加害者の罪を赦されたのです。

 

 何ということでしょうか。罪を罰するはずの神が罪の贖いの子羊イエスを用意され、御自身のひとり子を犠牲にして、被害者である神のほうから加害者である人に和解を求められたのです。

 

 人の悲しみと苦しみと嘆きを御覧になって、神は、御自身のほうから和解の御手を伸ばされたのです。

 神と和解することは、いのちを得ることです。神には死がないからです。神のいのち、すなわち永遠のいのちを得させてくださいます。

 

 私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった神の御子イエス・キリストを信じることは、地上に伸ばされた神の和解の御手に、私たちの手を差し出すことです。

 

 和解には双方の同意が必要となります。神は赦そうと待っておられるのに、人が神の贖いのわざ(イエス・キリストの十字架の御救い)を受けないならば、その和解は成立しません。そのような人は神に赦されないまま死んで行くのです。

 

 私たちが神に良いことをしたのでしょうか。神に愛されるに値する良い者なのでしょうか。

 「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、(私たちは)価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)

 

 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方(神の御子イエス・キリスト)によって私たちに、(永遠の火の池の滅びから救う永遠の)いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物(生贄)としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:9,10)

 

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

 神は、人が罪あるままで火によって裁かれ滅ぶことを望んでおられません。私たちを死と滅びから救い出したいと望んでおられます。神は、右も左もわからない私たちを救うために、私たちにひとり子(イエス・キリスト)をお与えになりました。