ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の子どもたちの長子

たち

 神が人を造られたとき、土の塵から造った人の形に神の息を吹き入れて生きものとされました。

 神の息が吹き込まれて生きものとなった人は、神から神の被造物を管理する役目をいただきました。神に聞き従って神の御心にかなった管理者となることが、人の役目でした。人の生まれた使命は、神のことばに聞き、良き管理者となることでした。

 

 人が置かれたエデンの園は、何不自由のない理想郷でした。獅子も牛も人もすべての生き物の食物は植物でした。肉食ではありません。神の秩序は守られ、争う心もなく、穏やかで安心な環境でした。

 

 しかし、蛇は被造物の中で最も狡猾なものでした。悪魔が蛇に悪魔の言葉をさずけると、疑うことを知らないエバは騙されて蛇の言葉に従い、神のことばにそむく結果をもたらしました。

 神よりも妻エバを愛したアダムは、エバが与えた実を食べてエバと同じ道を行きました。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べたふたりの目(現象を見る目)が開かれ、自分たちが裸であることを知ると、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作りました。

 善悪を知る知識の木の実を食べる以前は、霊の目で見、実体(目に見える現象ではなく、そのものの本質〈霊魂〉)と交わって生きていたふたりでしたが、肉の目が開かれると肉が生き、自分の思いで見るようになってしまいました。

 

 神が主であって神を仰いでいた人が、自分という意識(神から離れた意識)を持つ者となってしまったのです。

 自分を意識すると、神への意識は遠ざかります。何の不満もなく喜びに満ちていたエデンの園に、自我に芽生えた人は異物となってしまいました。

 自我は、自分を意識の中心に置きます。自分が己の主(神に代わる主人)となり、自分で思考し判断し選択し決断する自分の王国をひとりひとりが作ることとなりました。

 

 小さな王国が共生するのは困難です。それぞれの王が自分を主張するならば争いが生まれます。

 エデンの園の主は、神おひとりであり、人は主に聞き従い主のみ旨のうちにあって被造物を管理するものでした。しかし、アダムは、ひとりの王国を作ってしまったのです。エバも王国を作りました。アダムとエバのうちに一致は失われました。神はアダムの良き助け手としてアダムのあばら骨からエバを造られましたが、人は分離しました。エバは、アダムと心一つの助け手ではなくなりました。

 最初に造られた人は、アダム(男)とエバ(女)に分かれましたが、もとはひとりの人でした。エバはアダムの一部(あばら骨)であり、アダムはエバのからだだったのです。

 

 神の命令にそむき、神のことばから外れた人は、まことの主の主権から外れたのです。人の罪によって、エデンの園の秩序は乱れました。人はもはや、神のみ旨を担う管理者ではなくなりました。良き管理者を失ったエデンの園は、神にそむいた人と同様に神の支配を受けなくなりました。管理者である人が神のいのちを流さなくなったので、被造物全体もいのちを失ったのです。

 

 神は、アダムとエバに皮の衣をつくり、彼らに着せられました。神は、罪を犯したアダムとエバに、おそらく獣を屠ってその皮を着せられたのでしょう。

 必ず死ぬと言われていた人は、すぐには死なず、まず、神から離れて霊が死に(神がわからなくなり)、しばらくして肉体のからだも死ぬこととなりました。

 

 人は、肉の人となり、生き長らえたのでした。肉の人は、生まれたときから死に定められています。人間はみな、死に向かって老いて行きます。寿命は人それぞれですが、人はみな必ず死ぬのです。

 生老病死の苦しみにうめく人生を生きるのです。人生の意味を問いながら死んでいきます。不老不死を夢見ながら、いのちは尽きます。

 

 神がエデンの園から追放した人(アダムとエバ)に皮の衣を着せられたとき、神は彼らに悔い改めの猶予の時を与えられたのでしょう。

 

 神は人を騙した悪魔を怒られました。悪魔のために、永遠に燃え盛る火の池を用意されています。悪魔を火の池に投げ込むことを定めておられる神は、その時までに、罪に堕ちた人を救う御計画をもたれたのです。

 

 その御計画は、罪を犯した人がエデンの園で申し開きをしているときに定められました。罪に堕ちたエバの子孫に、神のひとり子を人の子として生み、罪に堕ちた人を死の国に入れ火の池に引きずり込もうとする悪魔を踏み砕くこと、そして、人の子となられた神の御子の血で人の罪を贖い、罪の呪いの死に打ち勝って死の国に落ちた死者の魂を永遠の火の滅びから救い出すことを御計画されたのです。

 

 神は、神を恐れる正しい人アブラハムを選び、彼と契約を結ばれました。アブラハムは、契約にしたがって、割礼を受け彼の子孫に、その契約のしるし(割礼)受け継ぎました。神は、アブラハムの子イサクの息子ヤコブを選び、神の民イスラエルを造られました。ヤコブはユダヤ民族の父であり、キリストを生む民族として選ばれたのです。

 

 蛇のかしら(悪魔)は、人類を救う救世主が創造する新しい人(第二のアダム)のかかと、すなわちイスラエルに噛みついています。キリストのからだが立てないように働いているのです。

 イスラエルは、キリスト(神の御子イエス・キリスト)を生み、神の子羊の血を流し、世の罪を取り除く神の祭司の国民としての働きを成し遂げました。(神の子羊イエスを十字架につけて罪の贖いの子羊の血を流しました。)しかし、イスラエルは、神が遣わされた約束の救世主イエス・キリストを信じませんでした。悪魔に噛みつかれ、新しい契約を理解できず、新しい信仰を受けることを妨げられているからです。

 

 神のひとり子イエス・キリストは、正真正銘の神の子どもです。天地万物が創造される以前から天におられた神の御子です。全知全能の神のひとり子なのです。

 

 イエスはイエスを疑うユダヤ人たちに言われました。

 「『あなたがた(ユダヤ人たち)の父アブラハムは、わたしの日(神の御子が地上に来られる日)を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。』

 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。

 『あなた(イエス)はまだ五十歳になっていないのに(二千年前の)アブラハムを見たのですか。』

 イエスは彼らに言われた。

 『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたし(神の御子)はいるのです。』

 すると彼ら(ユダヤ人たち)は石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」(ヨハネ56-59)

 

 神の律法によって思いが暗くなったユダヤ人たちは、生ける神のことば(イエスのことば)に耳は塞がれ、目は閉じていました。

 

 イエスは、十字架で罪の贖いの血を流され、墓に納められました。すると、イエスのことばどおり、三日目に墓から甦り、復活のからだで四十日間弟子たちに会われ、もうひとりの助け主(真理の御霊)を遣わすことを伝え、聖霊(真理の御霊)を受けるように命じて、弟子たちの見ている間に天に上って行かれました。

 

 神の子羊イエスは、十字架で私たちの罪の身代わりに、罪の処罰を受けてくださいました。そして、子羊の贖いの血で、私たちの罪を贖ってくださいました。

 死んで墓にはいり、聖霊の力によって甦り、復活のからだで墓から甦られました。もはや、肉のからだではありません。痛みも苦しみもない霊のからだです。肉のからだのような拘束はありません。自由のからだです。

 

 こうして、イエスのことば「わたしは甦りです。いのちです。わたし(神の御子イエス・キリスト)を信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)は実証されました。

 

 弟子たちはイエスのことばが確かなことを悟りました。彼らの喜びはどんなだったでしょう。師であるイエスを失った弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れ(次は自分たちが殺されるかもしれない)、戸を閉めてこもっていたのです。その中央に、復活のイエスが立たれました。復活のからだは、壁をも通り抜け、自在に移動できるのです。

 

 復活のキリスト・イエスを見て、彼らの信仰は確信となりました。ナザレのイエスは、本当に、神が遣わされた神の御子キリストだったのです。イエスは、アブラハムが生まれる前からおられた神のひとり子だったのです。

 

 イエスが天に上がられ神の御座の右に着座されると、弟子たちに聖霊のバプテスマ授けられました。弟子たちは、聖霊の器となり、真理の御霊に導かれて福音を力強く宣べ伝えました。

 

 イエスを信じる人々は、神の子羊イエス・キリストの血によって罪が贖われ、神に義とされます。そして、約束の聖霊(もうひとりの助け主)を受けるならば、御霊によって新しく生まれ、御霊に導かれる神の子どもに造り変えられます。新しい創造を受けるのです。

 

 救い主キリストともうひとりの助け主(真理の御霊)は、この新しい創造のために遣わされて来ました。

 肉のアダムは、キリストの十字架の死によって、キリストとともに肉に死に、御霊によって生まれます。御霊によって生まれる新しい人は、復活のからだと永遠のいのちの新しい創造の第二のアダムです。キリストが第二のアダムと言われる所以です。

 

 神のひとり子は、神の御子の栄光の御姿を捨て肉体を持つ人の子イエスとなられ、十字架で死に、死に勝利して御霊によって復活のからだ(霊のからだ)で生まれました。

 土の塵から造られ神の息が吹き入れられたアダムは、キリストを信じ、神の御子イエス・キリストの御名のうちに入るならば、キリストとともに肉に死んで御霊によって新しく生まれる第二のアダムとなるのです。

 

 第一のアダム(アダム、すなわち生まれつきのままの人間)は、永遠の死と死後の裁きが定められています。そして、悪魔のために用意された永遠の火の池に投げ込まれます。

 第二のアダム(御霊によって新しく生まれキリストの与える永遠のいのちを得る人)は、神の子どもに新しく造り変えられて、天の御国に迎え入れられるのです。

 

 こうして、神のひとり子は、肉に死んで御霊によって生まれる新しい人となられました。土の塵から取られた人(女のすえの人の子、すなわち神の御子イエス)が、キリストとして遣わされて、一度死んで死から甦り、永遠のいのちと復活のからだの新しい創造の初穂となられ、新しい人となられたのです。

 キリストと御霊によって、新しい創造の道が完成しました。

 

 永遠の昔からおられた神のひとり子は、ご自身(イエス・キリスト)にあって新しい人(永遠に生きる神の子ども)となられたのです。キリストは御霊によって生まれた新しい人の初穂です。

 

 キリストは、こうして、御霊によって新しく生まれる神の子どもたちの長子となられるのです。