ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

新しい世を建てられる栄光の主

 

 御使いからイエス・キリストの黙示を告げられた使徒ヨハネは、神の右に着座された栄光の主を見ました。

 

 「私ヨハネは、あなたがた(七つの御霊の教会の聖徒たち)の兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、(流刑によって)パトモスという島にいた。

 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

 その声はこう言った。

 『あなた(ヨハネ)の見ることを巻き物にしるして、七つの御霊の教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ぺルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。』

 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。

 それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く(全き聖なる栄光に満ち)、その目は、燃える炎(すべてを見透かし、心のうちにあるもの、その奥底まで見通す目)のようであった。

 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅう(不純なものや汚れを焼き尽くす火)のようであり、その声は大水の音(大水のとどろき)のようであった。

 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣(魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別する神のことば)が出ており、顔は強く照り輝く太陽(永遠に生きておられる神のひとり子の輝き)のようであった。

 それで私(ヨハネ)は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼(栄光の主イエス・キリスト)は右手を私の上に置いてこう言われた。

 『恐れるな。わたしは、最初(天地創造の初めであり、また新しい創造の世〈まことの神の代〉の初め)であり、最後(最初の創造の世を終わらせる主であり、最後の裁きの裁き主)であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデス(火の燃える死の国)との鍵を持っている。

 そこで、あなた(ヨハネ)の見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

 わたし(主キリスト)の右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの(御霊の)教会の御使いたち、七つの燭台は七つの(御霊の)教会である。』」(黙示録1:9-20)

 

 ヨハネは、イエスが地上におられたとき、イエスの公生涯(バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられた後、神の国のために働かれた三年半の間)につき従った十二弟子のうちの一人です。神の子羊イエスに、使徒に任命された十二使徒のひとりです。

 

 ヨハネは、師と仰いだイエスが十字架につけられたことの証人です。また、三日目に墓から甦られ、復活のからだで弟子たちに現われた復活のキリストとお会いした弟子のひとりです。

 復活のからだのイエスの姿は、三年半の間ともにした肉体のイエスの姿ではなかったので初め弟子たちも、イエスである事がわからないお姿でした。

 復活のからだのキリストは、ヨハネたち使徒の目の前で、天に上って行かれました。ヨハネは、イエス・キリストの生き証人でした。

 

 そのヨハネが見た天上のキリストの姿は、今まで見たこともない、永遠に生きておられる栄光の主のお姿でした。

 三年半の間、親しく「先生。」と呼んでつき従っていたイエスは、肉なる者が近づくことのできない、聖なる御姿であり、畏れ多いご主権者のキリストの姿でした。

 神の御座の右に着座された神の子羊イエス・キリストの御姿は崇高で、唯一の救世主キリストの声は天上の栄光と尊厳に満ちておられ、キリストはすべてのものの主権者となられたのです。

 

 イエス・キリストは、すべてのものを救う御力と、また手に箕を持ってキリストの脱穀場をきよめられる教会の主権者であられ、神の家を裁く裁き主です。また、天の御国に入る七つの御霊の教会を御霊によって生み、御霊によってかたち造られる方であり、御霊の教会の主であられます。

 

 キリストの右の手の中には、七つの御霊の教会の人々を守り助ける御使いたちと、御霊に聞き従う七つの御霊の教会(御霊によって新しく生まれ、御霊によって造り変えられ、御霊によって導かれる、新しい創造の人々)があります。

 

 七つの御霊は、神の御座の前におられます。そして、おのおのに分け与えられた御霊によって聖徒らの祈りを聞き、それぞれの聖徒らに仕えている御使いを働かせられます。すべての聖徒らのおのおのには、それぞれの御使いが仕えています。

 

 かつて、イエスは言われました。

 「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの御使いたちは(どんなに小さな者にも、天の御使いが仕えているのです。)、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(マタイ18:19)

 

 ヨハネは、主キリストの栄光の御姿を見たとき、恐れてその足もとに倒れて死者のようになりました。神からとこしえの主権をお受けになられたイエス・キリストの栄光は、永遠に輝くくすしい栄光なのです。

 

 この輝く栄光と主権といのちに満ち満ちたイエス・キリストが、再び地上に来られて、地上にイスラエル王国を建て、イスラエルの王となられます。

 イスラエルの王は、地上の諸国を治められる王の王です。

 悪い者が取り除かれた、新しい世界の始まりです。それは、神道が待ち望む弥勒の世であり、仏教が待ち望む三千世界であり、キリスト教が待ち望む千年王国であり、ユダヤ教が待ち望むエデンの園の回復です。

 

 イスラエルの王(イエス・キリスト)の治められる世は、すべてのものが喜びに満ち、平和な世です。

 

 「終わりの日に、主の家(イスラエル)の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。

 多くの民が来て言う。

 『さあ、主の山(エルサレム)、ヤコブの家(イスラエル王国)に上ろう。主(イスラエルの王イエス・キリスト)はご自分の道(いのちの道)を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』

 それは、シオン(神の御住まい)から御教えが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

 主(イエス・キリスト)は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。

 彼ら(諸国の民)はその剣を鋤(すき)に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(イザヤ2:2-4)

 

 武器はなくなり、世界は平和になります。

 栄光の主イエス・キリストが再臨されて、神道の日月神示の言う、「嬉しうれしの世」が始まるのです。