ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

地獄はないという甘い言葉

 

 聖書には、地獄の事が書かれています。

 それは、永遠に燃え盛る火の池です。そこに入った者は、決して出られないそうですよ。火の池は、そこに入った者たちの永遠の住まいとなるようです。

 

 しかし、創造主の存在を知らせ、宇宙の秘密を告げるスピリチュアルな人達の中で、地獄はないと大胆に明かす人々がいます。

 

 そこで、私も大胆に、私が想像する世の始まりを書いてみたいと思います。

 

 天地万物が造られる以前、すなわち、人がまだ存在していなかった時に、天では、大事件がありました。

 

 天は、神のおられるところです。神とは、力強いいのちの根源であり、永遠に輝く全き光のエネルギーのようなお方です。

 天には、神と神のひとり子と聖霊が、「三位一体の神」として存在され、そして、神の栄光をたたえ、神に仕える御使いたちがいました。

 

 天には太陽はなく、神御自身がすべてのものを照らす光でした。神に、暗い所はありません。霊的存在であり、物体はありません。すべてが霊なのです。それゆえ、光を遮断するものはありません。物体がないので、すべては光を通し、影もないのです。

 

 天使長ルシファーは輝く天使長だったようです。彼がご機嫌なうちは、天はしみも傷もしわもなく、歪みがありませんでした。全き平和と喜びの完全な光には、神を絶対主権者とする秩序と調和がありました。

 

 ところが、天使長のうちに、神のひとり子に対する妬みが芽生えました。神のひとり子は、神の寵愛を受けており、天使たちとは異なる存在のようでした。

 神を賛美するルシファーは、神の栄光の輝きをまとっていました。神のひとり子は、天使のように神をたたえる風でもないのに、神の輝きを持ち、神の愛を一身に受けていました。また、神のひとり子は、神を「父。」と呼び、その愛の中で安らいでいました。

 

 天使たちも神の子と呼ばれる者なのに、何が違うのでしょうか。

 神のひとり子も天使のひとりのように、神に仕えるべきではありませんか。

 神に仕える天使長は、とうとう、神に訴えました。しかし、神は、御主権をもって、ルシファーの訴えを退けられました。

 

 ルシファーの心に、神のひとり子への妬みが起こりました。神は、公平ではないと思いました。そして、ひとり子に多くの愛を注がれる神を憎みました。

 

 天使長の背きは、彼の心のうちに芽生えた神のひとり子への妬みから起こりました。妬みは、天使長の心の平安を揺さぶり、神の御子を退けてひとり子の御位をおのれのものにしたいと思うようになりました。それは、火のように激しい欲情でした。(神に受け入れられなかったずるい兄カイン〈アダムとエバの子〉が、神に純真で神に目を留められた弟アベルを妬み殺したのと、似ていますね。また、アブラハムの契約と祝福とを得た弟ヤコブを妬み、兄エサウはヤコブに殺意を持ちました。妬みは、死をもたらします。)

 

 天使長ルシファーにとって、ひとり子は仕えるべき神ではありません。彼(神のひとり子)よりも天使たちの上に立ち統率するおのれの方が、御位に着くのが妥当のように思えます。

 

 神は、そんなルシファーをいさめます。しかし、もはや彼を止めるものはありません。神が何だっていうのでしょう。ルシファーはおのれをひとり子よりも高い者とし、神に反逆しました。

 

 天使長ルシファーに生じた歪みを正し修復するという神の御意志よりも、ルシファーの決断がまさっていました。ルシファーは、自分の配下にいる天使たちを意のままに誘導します。

 

 ルシファーの背きは、天使たちの反逆となりました。手がつけられません。神は、歪んだ汚点(反逆の天使たち)を天から追放されました。彼らが、聖なる光にふさわしくない者となったからです。

 

 ルシファーとともに多くの天使が天から出て行きました。意志をもって天使長に従う者たちもいれば、何が起こっているのか認識のないままついて行った者たちもいます。

 

 光から出ることを知った途端、これは大変な事になったと状況を飲み込んで、神のみもとに助けを求める者たちもいます。彼らには、神のひとり子に反逆する意志はありません。神は御存じです。

 おそらく、神は、彼らを神の恩赦によって、彼らの完全な悔い改めの後に、永遠に神と神のひとり子と聖霊の三位一体の神と、神の子どもたちに仕える特別な御使いとして、新しい創造を施されたのではないかと思います。

 

 人が造られた後に、神のひとり子を長子とする、新しく創造される神の子どもたちにも仕える生き物として、神は彼らを四つの生き物の新しい姿に創造されたように思います。

 

 さて、神は、多くの天使たちを光から追放して、追放した彼らを住まわせる闇の中に、宇宙を創造されました。天から追放した天使たちに、怒るのに遅く、恵み豊かな神は、すぐには裁くことなく、逃れ場を与えられました。神が、堕天使たちのために天体を創造されて、宇宙は生まれました。

 

 神は、神のひとり子に敵対する悪魔(大天使ルシファーの成れの果て)と悪霊ども(天使長に従う堕天使たち)を赦されません。彼らを裁かれます。彼らの永遠の住まいとして、永遠に燃え盛る火の池を造られます。

 

 神は、悔い改める堕天使を罪に定めて滅ぼすことはされません。神は、彼らを悪魔の永遠の住まい(火の池)とは別に、彼らのために救いの道を用意されました。

 それが、エデンの園です。エデンの園には、いのちの木がありました。永遠のいのちを得させる「いのちの実」を実らせます。神は悔い改める堕天使に永遠のいのちを得させ、罪のないものとして、再び光に戻らせるのです。

 

 天から追放されて、光のいのちを失った堕天使たちが、ルシファーの不義、神のひとり子に敵対する罪を憎み、神のひとり子を愛し神に従順な者となるならば、神は彼らにいのちの木の実を食べることを許されます。

 

 エデンの園には、いのちの木の実を食べることが許された堕天使(自称神の子)が入ります。天の光に帰るいのちの木の実が用意されていました。

 

 地球は、宇宙の生命体(人間から宇宙人と呼ばれる堕天使たち)のうち、人のかたちまで進化した生命体を集め、最後の試みをする星でした。

 地球の中には、マグマが煮えたぎっています。悪魔と悪霊のために用意された永遠の住まいです。

 悪魔の永遠の住まいの星(地球)で、神は、天から追放した堕天使たちを試み、試みに合格した堕天使たちを、エデンの園のいのちの木へと導かれるはずでした。

 

 神は、エデンの園の管理者として、人を造り、人を置かれました。 

 ところが、神のことば(神のひとり子)とひとつとなって管理するはずの人が、悪魔の餌食となったのです。

 

 人は、天から追放された堕天使たちのように、悪魔に従って、エデンの園から追放されました。

 エデンの園のいのちの木は、罪ある人が食べて永遠に生きないように、と閉ざされました。

 

 それから、六千年あまり経ちます。

 神の御計画は着々と進められ、神は、神のひとり子を信じ聞き従う人のうちに、新しい創造を施して、神のひとり子(イエス・キリスト)を長子とする神の子どもたちを完成されます。

 

 神は、彼ら(新しく創造された神の子どもたち)を、神のひとり子(神の子羊イエス・キリスト)とともに、宇宙から集めた堕天使たちを試み、神の御子キリストに真実にへりくだる堕天使たち(いのちの書に名がしるされる堕天使たち)に、いのちの木の実を食べることを許す、エデンの園の管理者とされます。

 

 千年王国の都には、神のひとり子キリスト・イエスが住まわれ、都には、いのちの木があります。神がいのちの書に名をしるした者に、都は開かれます。

 

 人が造られた目的は、新しい創造の神の子どもたち(御霊の教会)によって完成されます。

 エデンの園から追放された肉の人間(アダムの子ら)は、都の門をくぐることができません。天から追放された堕天使も、都の門をくぐることができません。

 都にはいり、いのちの木の実を食べることが許される人々はみな、生かす御霊によって新しく創造される神の子どもたち(御霊の教会)なのです。

 

 いのちの木の実を食べる人々、いのちの冠(永遠のいのち)を受ける人々は、神の子どもとされる人々、すなわち、大きな白い御座で、神から義の冠を受ける人々です。

 彼らは第二の死(霊の死)によってそこなわれることはありません。復活のからだを得て、永遠に生きる神の子どもたちです。彼らは、神が彼らのために用意される新しい天と新しい地、天の御国にはいるのです。

 

 いのちの書に名前のない人々、すなわち、神のひとり子イエス・キリストを愛さず、神の子羊イエス・キリストを信じて神と和解する恵みを受け取らなかった人々(神の御子を尊ばなかった悪魔と同じ罪を持つ人々)は、神が悪魔と悪霊に用意された火の池に投げ込まれるのです。

 

 「地獄はないよ。」との甘い言葉は、「善悪を知る知識の木の実を食べても決して死なない。」とエバに囁いた蛇の言葉によく似ていますね。

 

 キリストを信じる人々の中にも、聖書をよく知る人々の中にも、この甘い言葉を喜んで受け入れる人々が起こることでしょう。

 

 「人々は健全な教え(キリストの福音)に耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(テモテ第二4:3,4)