「神は主(神の子羊イエス・キリスト)を甦らせましたが、その御力(聖霊、すなわち生かす御霊)によって(神の御子イエス・キリストを信じる)私たちをも甦らせてくださいます。
(イエス・キリストを信じる)あなたがたのからだは(御霊によって)キリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
遊女と交われば、(遊女と)一つからだになることを知らないのですか。『ふたりの者は一心同体となる。』と言われているからです。
しかし、主と交われば(主イエスの霊、すなわち、神のことば〈イエス・キリストの御名〉のうちに留まれば)、(生かす御霊によって主と)一つ霊となるのです。
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。(ほとんどの罪は、思いを汚すことであって、からだを汚すこととは異なります。)しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。(キリストのからだの一部である者が自分のからだを汚すことは、自分を汚すことではなく、キリストのからだを汚すことなのです。)
(キリストから真理の御霊を受け、神に永遠のいのちを得させられる)あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮(御霊の住まい)であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがた(の魂)は、代価(神は、十字架で流された神の子羊イエス・キリストの贖いの血)を払って(永遠の死と滅びから)買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一6:14-20)
聖霊を宿す者は、キリストのからだの一部であると、神はみておられます。
聖霊の宮の(御霊の宿る)魂は、もはや朽ちて行く肉のからだに縛られている魂ではなく、信仰によって、死から甦られたキリストのからだの中にあると仰せられます。
なぜならば、神の御子イエス・キリストを信じ真理の御霊を受け、生かす御霊によって永遠に生きる神の子どもに造り変えられる人々は、もはや、肉の人ではないからです。
肉の人は、主イエスとともに十字架で死にました。肉の人の罪は処罰され、死から甦られたキリストとともに、死から甦る新しい創造(生かす御霊)を受ける者とされたのです。
キリストの御霊(新しい創造をされる生かす御霊)によって肉に死んだ新しい人は、肉のからだのうちにいながら、生かす御霊によって、新しいいのちを受けます。新しいいのちは、とこしえに生きる永遠のいのちです。
神が、神の御子イエス・キリストの御名のうちに留まるキリストの弟子たちの肉のからだのうちに、新しいいのち(生かす御霊)を授けられるからです。
肉のからだ(肉体)ですが、御霊の御力によって甦り復活のからだとされる新しいからだがその人のうちにあるのです。その人の肉のからだのうちに、キリストが授けられる生かす御霊が宿っておられるからです。
その人のからだは、肉のからだ(肉体)ですが、世の人々のからだと同じものではありません。世の人々の肉のからだは、朽ちるからだです。しかし、御霊を宿す人の肉のからだは、御霊によって、復活のからだに変えられるのです。
肉眼で見ると、まったく同じ肉体に見えますが、霊の目で見ると、まったく別物です。一方は永遠の死を帯びた滅びるからだであり、一方は永遠のいのちを宿すからだなのです。
神は、神の御子イエスを信じる弟子たちを、聖霊のバプテスマを授けられるキリストの信仰により、肉体にあるままで御霊によって新しく生まれさせ、新生した魂を、復活されたキリストのからだの一部とされます。彼らは、自分の肉体の中にいながら、永遠に生きる復活のキリストのからだとされるのです。
彼らの霊は、生かす御霊によって生かされます。生かす御霊は、イエス・キリストの御名によって与えられる真理の御霊です。キリストの弟子(キリストに従う者)たちに、神が遣わされた「もうひとりの助け主」です。
十字架の主イエス・キリストの御救いを信じてキリストの弟子となり、生かす御霊を受ける人は、キリストのからだの一部とされる新しい人です。
神は、キリストの弟子たちが、神の御子イエス・キリストの設けられた、神のみもとに帰るいのちの道を歩んで、無事に天の御国にはいるために、もうひとりの助け主「真理の御霊」を遣わされました。
御霊を受けた人は、真理の御霊を受けたのです。真理の御霊は、その人のうちにあって、イエスのことばを思い起こさせ真理を教え、神の子どもに造り変えて行かれます。
真理の御霊を受ける人は、生かす御霊によって、復活のキリストのからだの一部とされ、神の子どもに創造されます。イエス・キリストを長子とする神の子どもです。
自分のからだであって、自分自身のものではありません。永遠に生きるキリストのものとなったのです。
なぜならば、彼の魂は、キリストの血によって、死から買い取られたからです。
キリストのからだの一部とされた自分自身を自分のものとして生きる者は、永遠の死に向かいます。
キリストのからだの一部とされた自分自身をキリストのからだとして生きる者は、キリストが死から復活されたと同様に、肉体に死んでも甦り永遠のいのちを得ます。
ヤコブは言います。
「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人を呪います。
賛美と呪いが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
泉が甘い水と苦い水を同じ穴から湧き上がらせるというようなことがあるでしょうか。」(ヤコブ3:9-11)
自分自身のからだを自分のものとして生きることもできますし、キリストのからだとして生きることもできます。
しかし、一つの肉体が同時に肉の人であったり、御霊の人であることはできません。同じ肉体ですが、肉と御霊の間を行き来できないのです。
なぜならば、肉の人として生きるならば、贖われていない人々の道に行くことになりますし、御霊の人として生きるならば、世の敵としていのちの道を歩まれたキリストの御足跡を歩むことになるからです。
主よ。私は、いのちの道を歩んで行きたいです。どうか、キリストの御霊とともに歩み、自分の栄光ではなく、キリストの栄光を現わす者に造り変えてください。