ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスを告白しない霊は神から出ていない

 

 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのもの(全き光である天に属するもの)です。それによって神からの霊(天のもの)を知りなさい。」(ヨハネ第一4:2)

 

 「なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。

 よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報い(永遠のいのちと天の御国)を受けるようになりなさい。

 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちに留まらない者は、神を持っていません。(真理ではありません。)その教え(キリストの教え)のうちに留まっている者は、御父をも御子をも持っています。(天の御国と繋がっています。)

 あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者(キリストの教えのうちに留まらない者)は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。(仲間となってはいけません。)

 そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。(行き過ぎをしてキリストの教えのうちに留まらない者と交われば不義をともにすることとなります。)」(ヨハネ第ニ7-11)

 

 使徒たちの時代に、御霊を受けた使徒たちにより始まった神の教会の中から、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったという事が、書かれています。

 

 ダビデの町ベツレヘムで処女マリアから生まれてヨセフの子としてナザレで育ったイエスのことも、ナザレのイエスが教えられた神のことばも、十字架で血を流して世の罪を贖われた神の子羊イエスのことも、墓から甦られて弟子たちに現われたイエス・キリストのことも、天に上られたキリスト・イエスのことも、また、キリスト・イエスが授けられる真理の御霊(聖霊のバプテスマ)のことも聞いておりながら、こんな不思議なキリストは自分たちと同じ人間ではないと考えた彼らは、天から来られた神の御子であることに固執し、あたかも人として来られたことを否定するかのように、イエスの神性を強調したのでしょうか。

 

 キリストは神に遣わされ、神の子羊としてイスラエルに来られました。

 罪の贖いの血を流すためです。肉体を持つから、血が流れます。しかし、行き過ぎをする者たちは、キリストを永遠に生きる霊的な存在であることを強調したのかも知れません。

 人間とは次元の異なる聖なる方であるとしたのかも知れません。

 カトリックがイエスの母マリアを聖母マリアの地位に置くために、原罪のない聖い女と考えたように⋯。マリアは無原罪の女として、たたえられています。

 

 処女マリアは、罪のないもの、原罪のない全き処女であったから、神の御子を宿すことができた、とするのです。

 残念ながら、アダムから始まって、人類は原罪の人の歴史を紡いで来たのです。肉体を持って生まれた以上、女から生まれたものはみな、神のことばから外れた、原罪持ちなのです。その証拠に、マリアは初子イエスの後で、夫ヨセフの子を何人も生んでいます。

 

 イエスは、天地万物が造られる以前の永遠の昔から、神のもとにおられた神のひとり子です。神の栄光の輝きを持つ永遠の神です。

 神のひとり子は、父なる神とともに、天地万物を造られた神なのです。無から有を生じさせられる創造主です。

 

 肉体を持つ以前、神のことばと呼ばれる神でした。イエスは、神のことばでした。神がひとり子のために肉体を造られたのです。処女マリアの胎の中に造られた肉体に神のことば(神の御子)がはいったのでした。

 

 最初の人アダムとエバは、神の命令にそむき、神のことばから外れました。神のことばから外れたことが、罪の根源であり、原罪です。神のことばから外れた者は、天から出なければなりません。罪ある者となったからです。天のいのちを失ったのです。

 

 罪の報酬は死です。光の天は死のないところです。神のいのちに満ちたところです。

 永遠のいのちと、死とは、何の関わりもないのです。

 

 イエスは、肉体に神のことばがはいった人の子です。処女から生まれました。人間の欲によって生まれたのではありません。神の御意志で処女マリアの胎にはいったのです。

 

 神のひとり子は神のことばですから、神の御子イエスは、肉体を持つ神のことばであると言えます。神のことばが人のかたちで現われたのです。神のことばから外れていない人の子です。堕罪前のアダムに等しい人です。

 イエスは、無原罪の魂のまま罪ある肉体にはいり、罪によって死にゆく魂(罪人)の救いのために罪に満ちた世に来られ、罪に満ちた世にあっても、エバにそそのかされて罪を犯したアダムのようには罪を犯されなかった、世の罪を贖う、罪のない全き神の子羊です。

 

 イエスは、罪ある肉をまとって、人の子として来られました。

 原罪の肉をまとった人の子イエスは、死をまとう滅びの肉を滅ぼすために、みずからは神のことばのうちにあるまま死なれました。

 原罪の肉のからだは、神のことばから外れた魂とともに滅びますが、神のことばとひとつの神の御子イエスの魂は、死から甦りました。神の御子イエス(神のことば、すなわちイエスの教えの中に留まる者)の魂は、死から甦ります。

 

 肉は死んでも、神のことばは永遠に生き続けます。肉の死によって、神の御子(神のことば)は、聖霊がお与えになる復活のからだ(霊のからだ)をお受けになりました。

 罪のない神の御子イエスに、永遠の死はあり得ません。天地万物が造られる以前、遥か昔から永遠に生きておられ、永遠に生きられる神のひとり子なのです。

 

 このことに焦点を合わせた人々は、子羊の血よりも、永遠に生きられる神のひとり子をキリストとしたのでしょう。キリストを遣わされた御父を隠し、イエス・キリストご自身に栄誉を与えたのです。

 

 神も御子も創造主です。それゆえ、イエス・キリストは、創造主です。彼らは、子羊イエスの血の恵みを隠し、創造主を信じて創造主のもとに帰ることが救いであるとしたのでしょう。

 

 神のことばであるひとり子が、罪を贖う贖いの血を流す神の子羊(人の子)として来られたことよりも、創造主として来られたことを強調します。そうすることで、人の罪をわからなくさせます。罪がわからない者は、悔い改めることがありません。

 人は罪人ではなく、創造主が造られた尊い神の子であることを強調するのです。その教えを聞く者は罪が責められることもなく、心地よく創造主に集まります。

 

 イエスを、人間と等しい者として人の子に並べるよりも、創造主を崇めることのほうがはるかにわかりやすく、ありがたく、受け入れやすいのではないでしょうか。人の罪が言及されることがないからです。

 その教えが行きすぎると、神の御子イエス・キリストの存在は取り除かれて、人は創造主に愛されて造られたもの、神の子である、となっていくのではないでしょうか。神の子であることに目覚め、創造主の愛に帰ろうという教えになっていくのです。

 自分たちは神の子であると考える人々には、贖いの血も、罪の赦しも、救世主(神の御子イエス・キリスト)も存在しまぜん。彼らの教えには、地獄も存在しないのです。

 

 こうして、まことの神から出ていない広い道にはいる者が多くいるのです。永遠のいのちを与えない、偽りの救いの道です。

 

 「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。(神の御子イエスとともに神に覚えられている者です。)そして彼ら(世のもの)に勝ったのです。(真理の中にはいったのです。)あなたがたのうちにおられる方(真理の御霊)が、この世のうちにいる、あの者(反キリスト)よりも力があるからです。(真理の御霊は偽りを見抜き、反キリストの惑わしに打ち勝ち、世の滅びから救い出してくださいます。)

 彼ら(反キリストの霊)はこの世の者です。ですから、この世のことばを語り(この世の人々を慰め励まし)、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。」(ヨハネ第一4:4,5)

 

 「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊(神のひとり子に敵対する者〈悪魔〉の霊)です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(ヨハネ第一4:3)