ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

エデンの園の回復

 

 ユダヤ人たちは、聖書に書かれている、世の終わりの後に起こる平和な世界のことを、エデンの園の回復と捉えているようです。

 

 エデンの園とは、最初の人アダムが管理していた園のことです。被造物の間に争いはなく、平和で、神の御心を満足させる世界でした。

 被造物のそれぞれの間に優劣はなく、神が造られたままの姿で満足し、喜びに満ち、神の栄光を現わしていました。

 神に造られたままの姿が、創造主の栄光を現わしていました。造られたものが造られた姿のままで喜びに溢れていることは、創造主をたたえていることです。創造主が良きお方であると証しているのです。

 

 善悪の知識の木の実を食べていないので、良い悪い、好き嫌いのはかりを持っていません。被造物の思いは、創造主に向けられていました。神御自身が、被造物のすべてでした。個々で判断しません。彼らの思いは神の中にあり、神の御思いが彼らの喜びでした。

 

 創造主は「わたしはある」という名前を持つ神です。すべてのものは、この神の中に存在していたのです。神によって生まれ、神によって存在しているのです。神がおられないならば、生まれることも存在することもできません。被造物にそのような知識があったかどうかはわかりませんが、彼らのいのちがそれを知っていました。被造物の知恵と知識は神御自身でした。被造物は神の中にあったのです。その頃、被造物は、神のおられない世界を想像することができませんでした。

 

 彼らの耳は神のことばに向けられ、彼らの目は神の栄光を見ていました。すべてのものに神を感じ取り、神に触れていたのです。

 

 「わたしはある」と仰せられる神の中にすべてのものは存在しているのです。被造物は決して「私はある」という存在ではありません。神を離れては存在し得ないのです。

「私」と思っている自分は、実は「わたし」と仰せられる神の中にあるから「私」であって、神のものなのです。「私」とは個々人ではなく、「わたし」という神の一部なのです。

 

 エデンの園は、草食でした。獅子も牛のように草を食んでいたのです。肉食になったのは、ノアの時代の大洪水の後の世界です。

 

 エデンの園には、いのちの木がありました。いのちの木の実を食べると、永遠に生きる者となるのです。

 エデンの園は、人のためではなく、天使長ルシファーに従って、ルシファーと一緒に天から追放された堕天使たちの救いのために造られたのではないのか、と私は考えています。

 

 ルシファーは光から追放され、闇を支配する者となりました。ルシファーの反逆によって、神が闇を創造されたのでしょう。闇に入ったルシファーは、悪魔となりました。悪魔は神に敵対する者です。ルシファーと一緒に光を出た堕天使たちがすべて悪霊になったわけではありません。

 

 天使長ルシファーが率いていた天使たちの中で、神から離れたことを悔いる者たちも多く現われたのでしょう。神に敵対することは、彼らの本意ではないのです。悔いる堕天使たちのために、神が用意されたのが、天体であり、地球であり、人でした。

 

 太陽系銀河の地球が造られるまで、何回も救いが試みられ、その度に成功しないように悪魔と悪霊となった堕天使たちが妨げてきたのでしょう。

 

 イエスは、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」というペテロの問いに、次のように答えておられます。

 「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(マタイ18:21,22)

 

 赦すことは一度ではないのです。地球で起こっている神の救いの計画もまた、すでに、多くの星で繰り返されて行われて来たのではないのかと思います。聖書の創世記には、私たちの地球のことに焦点を合わせて書かれていますが、地球誕生までの間にも、堕天使たちの救いのわざは繰り返し試みられていたのだと思います。

 

 神は、地球に、土から造られた「人」をおいて、管理者とされました。この「人」に救いの望みが託されたと思われます。「人」の創造は、すべての創造にまさるものでした。神の憐れみと愛と赦しと救いの証なのです。この土から取られた「人」に、いのちの木の管理をまかされました。永遠のいのちを授ける宝の木を、土から取られたアダムの管理する、エデンの園に置かれていたのです。

 

 救いを望む堕天使たちが、土から造った卑しい「人」を管理者としてへりくだることができるでしょうか。

 それを望まない堕天使たちは、いのちの木の実を食べることが許されません。善悪の知識の木の実を食べる者となり、悪魔に支配されるものとなります。悪魔の下にいるのが嫌であった堕天使ですが、神に似せて土から造られた「人」にへりくだることができないために、永遠に悪魔の支配下に置かれます。

 

 「人」の存在は、堕天使の本心を知るためでした。

 神が神に似せて造った「人」に、神に従うように従うことができるのかを試すものでした。

 

 本当に、心から悔い、神のもとに帰りたいと願う堕天使は、藁にもすがる思いで、土から造られた「人」に映し出された神の栄光を見て、いのちの神を求めるでしょう。彼らは、決して悪魔のもとに行きたくないのです。かつて、天使であった頃は、天使長として敬っていたルシファーですが、神から離れたルシファーには輝きがありません。ルシファーの輝きは、神からのものだったのです。ルシファーではなく、神にこそ、いのちの輝きがあり、栄光の光があるのです。闇に入って、実感しました。

 

 ルシファーの輝きは偽りでした。ルシファー自身のものではありません。光から追放されたルシファーは、醜く恐ろしい姿の悪魔です。大きな蛇のようであり、竜の姿です。聖書では、悪魔が竜として書かれています。神の栄光の輝きは、悪魔にはありません。また、悪魔には、愛も憐れみも平和も平安もありません。怒りと憎しみと争いと滅亡だけです。悪魔は、神から引き離す者です。

 神には、愛と聖と義と平安と喜びがありました。

 

 堕天使の救いの決め手は、エデンの園の管理者である「人」でした。「土から造られた人」の支配を受けるほどにへりくだった堕天使は神に義とされ、いのちの木の実を食べる権利が与えられます。すると、いのちの木の実を食べた堕天使は、神の御前で永遠に生きるものに回復され、神に仕えるものとされるのです。

 

 エデンの園に悪魔も行き来していましたが、エデンの園は、争いがなく、平和でした。神の治められるところなのです。悪魔は蛇によって、言葉巧みにエバをそそのかし、悪魔の支配下に入れました。争いで奪うのではなく、巧妙な偽りのことばでエバの心を引き寄せました。神のことばに対する疑いを抱かせ、神と一つであった「人」の心に足場を設けたのでした。

 

 しかし、アダムの堕罪でエデンの園から追放された「人」の救いのために、神のひとり子が地に遣わされました。神のひとり子が罪の身代わりとなって贖いの血を流すほどに、神は、土から造られた「人」を愛されました。

 

 神に愛されていることを知った人は、神に立ち返り、神を愛する者、神のことばの中に留まる者となります。

 すると、「人」に被造物を支配するようにと命じられた神のことばが、再び始動します。

 

 人を救うキリスト(神のひとり子)が、世界を治めるために天から来られます。聖書の民が、待ち望んでいる平和の世が地上に始まるのです。この平和の世界のことは、旧約聖書にも、新約聖書にも預言されています。

 

 エデンの園のように、正義をもって神が治められる時代が来ます。被造物の贖いの時です。獅子も牛のように草をはむ草食の世界です。争いはありません。武器は農具に打ち直されます。幼児が毒蛇と戯れます。だれも害するものがなく、悲しみも涙も嘆きもありません。喜びと楽しみに満ちています。

 

 最初の契約の民のユダヤ人はみな、死者の中から甦ります。ある者は永遠のいのちのために、ある者は永遠の滅びのために。滅ぶ者たちもみな甦ります。イスラエルの神が真実であったことを悟るため、ナザレのイエスが神の御子キリストであることを知るためです。そして、彼らは、都の外に締め出されて、歯ぎしりします。

 

 都には「いのちの木」があり、神に許された者たちが都の門を通って都に入り、いのちの木の実を食べるのです。

 

 新しい契約のキリストの民の死者の中で救われた者たちが、死者の中から甦ります。残りの死者たちは、罪人たちとともに墓の中に眠ったままです。回復したエデンの園を味わう者は、幸いな者です。

 

 キリストが治められる平和な世は千年続きます。その世では命が長く、樹木のように長生きです。百歳で死ぬ者は短命だと言われます。

 

 悪魔は縛られており、悪魔は働くことができません。神の都エルサレムに神の御座があり、復活のキリストの王座もあります。地上に神の国が訪れ、人々はその平和な世界を味わいます。

 

 世界中から、キリストの治められる千年王国の時代を喜び、人々は仮庵の祝いを祝いに都に訪れます。

 

 この時代に、堕天使たちは、女から生まれる人の子となって生まれ、キリストの主を崇めイスラエルの王を拝する者は神の御救いを受け取って、いのちの木の実を食べて永遠のいのちを得るのでしょう。

 

 死海(塩の海)は、聖所から流れるいのちの水が入り、生き物の生息する良い水となって、多くの魚が住むようになります。いのちに溢れる被造物の栄光の姿が甦ります。

 

 世界の中心は、神の御住まいのエルサレムであり、死者の中から復活したいのちの冠を被る聖徒らが、世界の国々の王となって国々を支配し、ひとりの王、イスラエルの王であるイエス・キリストが世界を治められます。

 

 都に入って、いのちの木の実を食べる者は、永遠に生きる者となり、都に入ることが許されない者やいのちの木の実を食べることのない者は、神に裁かれます。

 

 世の終わりに回復するエデンの園は、生きたまま霊のからだに変えられた者もいれば、死から復活した霊のからだの者もいれば、いのちの木の実を食べて永遠に生きる者もいます。彼らは、永遠のいのちを得た者です。

 

 善悪の知識の木の実を食べた女から生まれた、生まれたまま肉のままの人間と、キリストを信じて御霊によって新しく生まれ、いのちの木の実を食べて永遠に生きる霊のからだの人もいます。

 霊のからだの者と肉のからだの者が存在するのです。

 

 最初の人アダムのエデンの園に、いのちの木と善悪の知識の木があったように、終わりの人復活のキリストの回復されたエデンの園には、いのちの木の実を食べた人と、善悪の知識の木の実を食べた人とが存在するのです。