すべての人には、父親と母親がいます。人は、男と女の一体から生まれているからです。
その父にも父親と母親がおり、その母にも父親と母親がおります。アダムとエバから始まった人類の歴史は、血によって繋がっています。
神が神の祭司の民として契約を与えられたイスラエルのレビ族(ユダヤ民族の父ヤコブの十二人の息子のひとりユダの子孫)は、神に仕えるものとして、神に取り分けられた部族です。レビ人は、神に聖別された祭祀に仕える人々です。
レビ人であるから、祭司なのではありません。
レビ族には多くの子孫がいますが、神が祭司として選んだ者は、アロンとアロンの子孫です。
アロンの子孫の中で大祭司の子孫は、一系だけです。それ以外の子孫が祭司の務めをするならば、聖なる神が彼を打ち、彼は神の聖を汚す者として死んでしまいます。アロンの子孫だからといって、すべてのものが許されているわけではないからです。
主権は、神御自身にあります。神の定めの中で、レビ人は、それぞれ分け与えられた務めを担っているのです。
仏教では、輪廻転生を信じています。人は何度も生死を繰り返し、新しい生命に生まれ変わることを信じているのです。
キリスト教では、一度きりの人生と考えます。それゆえ、誰かの生まれ変わりとか、次に何に生まれ変わるのか、という考えを持ちません。
しかし、近年、宇宙人の存在が表ざたになり、また、仏教以外にも、生まれ変わりの思想を持つ人々が起こされています。スピリチュアルな人の中には、過去生を視る人もいるようです。つまり、過去どのような人生を歩んだ魂なのか、いつの時代どこの国でどのような過去世を持つのかを視るのです。
繰り返される因縁を知り、それからの解放を願うためでしょうか。あるいは、今生の自分が本当ではないと感じ魂の故郷を知りたい、自分の存在の意味を知りたいと願うからでしょうか。
聖書の中には、生まれ変わりについて書かれていませんが、私個人は、アダムから始まった人類は、一度限りではなく、何度も生まれ変わって、魂を磨くチャンスが与えられて来たのではないのかと思います。
「七を七十倍赦しなさい。(罪を犯した者を何度まで赦すのか、七度までかと尋ねるペテロに、イエスは、七度までとは言わない。七度を七十倍するまで。と言われました。)」(マタイ18:21,22)と、赦しを命じられる神なら、あり得ることだと思います。
人がひとり生まれると、その背後には、多くの魂が連なっています。ひとりで存在しているようですが、実は、先祖というものがあって存在しているのです。
神の律法(神の民として守るべき戒め「モーセの十戒」)には、このような命令があります。
「あなたには、わたし(天地万物を造られた生けるまことの神)のほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。(生けるまことの神以外の神々を造ってはならない。)上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者(神に逆らう者)には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで及ぼすからである。」(出エジプト20:3-6)
神に逆らう者の系図を呪い、神に従順な人の系図を祝福することが書かれています。
系図は、まるで、ひとりの人のような扱いです。
生まれ変わりを信じる人々に申し上げます。
過去生の縁は、もう終了しています。過去生の系図は、過去生の終了とともに断ち切られました。過去生で完成されなかったから、今生の系図の中で学ぶように、再び生まれて来ているのです。
今生の学びで完成されなければ、この世の終わりとともに、魂の生まれ変わりは終了となるでしょう。今生のあり方が大切なのです。
過去に良い行ないをしたことは、今生、魂の試験のやり直しの機会を得るためだったのかも知れません。なぜならば、魂が完成されていないから、生まれ変わって、もう一度チャンスを与えられているのではないでしょうか。
魂の完成とは、創造主を知り、いのちの根源である神のもとに帰ることです。
神のもとに帰る魂が、再び、生まれ変わることはありません。すでに、ゴールに達しているからです。あとは、義の栄冠を受ける日を待つばかりです。
「乏しい者や貧しい者をしいたげ、物をかすめ、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て、忌み嫌うべきことをし、利息をつけて貸し、高利を取るなら、こういう者ははたして生きるだろうか。彼は生きられない。自分がこれらすべての忌み嫌うべきことをしたのだから、彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。
しかし、彼が子を生み、その子が父の行なったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行なわず、丘の上(の偶像の前)で食事をせず(偶像と交わらず)、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、だれをもしいたげず、質物をとどめておかず、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、卑しいことから手を引き、利息や高利を取らず、わたしの定めを行ない、わたし(神)の掟に従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。
彼の父は、しいたげを行ない、兄弟の物をかすめ、良くないことを自分の民の中で行なったので、彼は確かに自分の咎のために死ぬ。(彼の魂は永遠に死に、もはや生まれ変わって、魂の試験をやり直すことはない。)
あなたがたは、『なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか。』と言う。その子は、公義と正義とを行ない、わたし(神)のすべての掟を守り行なったので、必ず生きる。
罪を犯したものは、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。
しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべての掟を守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。
彼が犯したすべての背きの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。
わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ。―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
しかし、正しい人が、正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌み嫌うべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らい(神を知りながら神を求めず、悪により頼んだ罪)と、犯した罪のために、死ななければならない。」(エゼキエル18:12-24)
神は、神の御子キリスト・イエスにあって、エゼキエルのこの掟を、新しいイスラエルの掟とされました。
魂の救いを求める人は、今を生きることが重要です。今生が、最終試験の場だからです。過去の事ではなく、未来のことではなく、神は、今の私たちを心配しておられます。
神のことばは、成すことをせずむなしく神のところに帰ることはありません。
必ず、神の望むことを成し遂げ、神の言い送られた事を成し遂げ、成功させられるのです。
「神の遣わされたキリストを信じる者に、永遠のいのちを得させる。」
神は、この約束を成し遂げられます。
今生、神の約束を知り、唯一の救世主(神の子羊イエス・キリスト)のいのち(生かす御霊)を得る者は、喜びをもってこの世を出て行き、安らかに神のみもとに導かれて行きます。
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
悪者はおのれの(不義の)道を捨て、不法者はおのれの(悪しき)はかりごとを捨て去れ。
主(魂のふるさと創造主)に帰れ。そうすれば、主は憐れんでくださる。
私たちの神(天の神)に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ55:6,7)