ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

裏切られることのない希望

 

 「キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないもの(偽りを宣べ伝えること)になり、あなたがたの信仰(死んでもキリストのごとく甦り、天の御国で永遠に生きるという神への信頼と望みを持つ信仰)も実質のないものになるのです。

 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストを甦らせなかったはずですが、私たちは神がキリストを甦らせた、と言って神に逆らう証言(神に関して真実を語っていない)をしたからです。

 もし、死者が甦らないのなら、キリスト(人の子として来られたイエス)も甦らなかったでしょう。

 そして、もしキリストが甦らなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪(罪の報酬の死)の中にいるのです。(罪が贖われたことも、永遠のいのちを得ることも嘘ということになります。)

 そうだったら、キリストにあって眠った者たち(神の子羊イエス・キリストの血によって義としてくださり、永遠のいのちを得させてくださる神を信じて死んでいった者たち)は、滅んでしまったのです。(キリストが復活されなかったなら、私たちはだれも復活する者はなく、永遠の火の滅びを恐れながら待つだけです。)

 もし、(イエス・キリストの御救いを信じる)私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら(保証がなく実質のない事柄に希望を持っているだけなら)、(永遠のいのちの約束と天の御国に帰るという希望を持ちながら、実は、そのようなことの起こることのない)私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(ただ夢見る者で終わるのです。)

 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から甦られました。(実際にイエスの弟子たちは、四十日の間、復活のイエスにお会いし、弟子たちが見ている間に天にのぼって行かれるキリストを目撃しているのです。しかも、父にお願いして御子イエス・キリストが授けられた聖霊を受けて、弟子たちは聖霊の声を聞き、真理の御霊に教えられてキリストの足跡を歩み、信仰を全うしているのです。復活の約束は、彼らにとって単なる希望ではなく、必ず実現する約束なのです。)

 というのは、死がひとりの人(最初の人罪に堕ちたアダム)を通して来たように、死者の復活もひとりの人(罪のない完全な人の子イエス・キリスト)を通して来たからです。

 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(肉によって生まれた最初の人は滅び、御霊によって新しく生まれた人〈御霊によって造り変えられ新しく創造された人〉は永遠に生きるのです。)」(コリント第一15:12-22)

 

 「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。』ということになるのです。

 思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣が損なわれます。

 目を覚まして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。(聖なる)神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。』(コリント第一15:32-34)

 

 イエスは言われました。

 「そんな思い違いをしているのは、聖書(聖書の約束)も神の力(聖霊)も知らないからです。

 復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(マタイ22:29,30)

 

 天上のからだ(霊のからだ)もあり、地上のからだ(肉体)もあり、天上のからだの栄光(魂の輝き)と地上のからだの栄光(肉体の美しさ)とは異なっています。

 

 死者の復活は次のようです。

 「人は朽ちるもの(肉)で蒔かれ(肉体をもってこの世に生まれ)、朽ちないものに甦らされ(この世でキリストの御霊によって新しく生まれ)、卑しいもので蒔かれ(罪ある者として生まれ)、栄光あるものに甦らされ(聖なる神の子どもに造り変えられ)、弱いもので蒔かれ(悪魔に負けた敗北者として生まれ)、強いものに甦らされ(イエス・キリストにあって悪魔に勝利する信仰の勝利者に変えられ)、血肉のからだで蒔かれ(死んで滅びるからだで生まれ)、御霊に属するからだに甦らされるのです。(聖霊〈生かす御霊〉によって復活のからだで甦らされ神の子どもとされるのです。)

 血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

 聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダム(罪のない全き人イエス・キリスト)は、生かす御霊となりました。(アダムの子孫は神の息によって限りある命を生きる者ですが、イエス・キリストの御霊によって生かされる人〈新しい創造を受ける人〉は永遠のいのちによってとこしえに生きるのです。すなわち、神の息によって生きる者は死にますが、生かす御霊によって生きる者は永遠に生きるのです。)

 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。(血肉のものは肉の欲求によって生まれ、御霊のものは信仰によって生まれます。人は、信仰による霊的な契約〈御霊〉によって神の契約を完成します。また、肉のものは肉のからだのある間に御霊のものとなる恵みが与えられています。)

 第一の人(アダム)は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人(イエス・キリスト)は天から出た者(神のひとり子)です。

 土で造られた者(生まれつきのままの肉の人)はみな、この土で造られた者(神に背く不信仰な罪人)に似ており、天からの者(天に属する御霊によって生まれた神の子ども)はみな、この天から出た者(神に忠実な神の御子イエス・キリスト)に似ているのです。

 (イエス・キリストを信じる)私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。(私たちは神に背き神から離れた者として生まれましたが、主イエス・キリストを信じる信仰によって、神を賛美し礼拝する者に造り変えられ神の子どもとされました。)

 (主キリストにある)兄弟たちよ。私(パウロ)はこのことを(あなたがたに)言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。(神の子羊イエス〈救い主〉を信じる信仰により、生かす御霊によって生まれ、神の子どもに造り変えられなければ、天の御国にはいることができません。天の御国は、復活のからだの者たちがはいる霊の世界なのです。)」(コリント第一15:42-50)

 

 「朽ちるもの(肉のからだの者)は、必ず朽ちないもの(復活のからだ)を着なければならず、死ぬものは、必ず不死(生かす御霊の永遠のいのち)を着なければならないからです。

 しかし、朽ちるもの(死と死後の裁きが定められた人間)が朽ちないものを着(キリストの御霊を受け)、死ぬものが不死を着るとき(永遠の死に定められていた人間が永遠のいのちを得るとき)、『死は勝利にのまれた。(悪魔は、女の子孫、神の御子イエス・キリストによって滅ぼされ、人間を脅かした死と滅びとは神の御子キリスト・イエスの勝利にのまれた。)』としるされている、みことばが実現します。

 『死よ。(悪魔よ。)おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。(神に敵対する悪魔よ。)おまえのとげはどこにあるのか。(悪魔のわざは神の御子キリストによって取り除かれ、新しく創造される神の子どもたちはしみも傷もしわもない完全なものとされる。)」(コリント第一15:53-55)

 

 「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(イエス・キリストの御名によって、人は死から甦り、永遠のいのちを受けるのです。)

 ですから、私の愛する兄弟(主キリストにあるとこしえの兄弟)たちよ。(信仰に)堅く立って、動かされることなく(惑うことなく)、いつも主のわざに励みなさい。(いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさい。)

 あなたがたは自分たちの労苦(信仰に伴う苦難)が、主にあってむだではないことを知っているのですから。」(コリント第一15:57,58)

 

 「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに賞賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 これは、信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。」(ペテロ第一1:6-9)

 

 「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)