ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

人には隠された神の愛

 

  二年前、神奈川県川崎で、ミッションスクール(小学校)のスクールバスを待っていた列に刃物を持った男が現れ、20人の殺傷事件がありました。二人の方が死亡されました。

 

  衝撃的な事件でした。どうしてこんなことが。主は守ってくれなかったのか、と思いました。暗い気持ちで、どうしてなんだろう、と答えを探していました。

 

  ちょうどその頃上映していた『僕はイエス様が嫌い』という映画を観ました。転校先でようやくできた、ひとりの心を通わせられるお友達との交流が描かれています。

 

  ミッションスクールのため、聖書や神が出てくるのですが、主人公の転校生は、イエスの存在がわかりません。しかし、イエスの姿が見えました。お友達が欲しい、とお祈りしてみました。すると、お友達が出来ました。

 

  転校生は、お友達の家に遊びに行くと、そこでクリスチャンのお母さんの笑顔と祈りに触れます。また、転校生にもイエスがともにおられて、お祈りを聞いてくださいます。

 

  お友達と楽しく過ごしていたのに、突然大事なお友達が交通事故に遭って入院し、生死を彷徨います。熱心なクリスチャンのお母さんの祈りもあるし、転校生もイエス様が助けてくれると思っていました。しかし、お友達は亡くなりました。

 

  死ぬ事が無いようにとお祈りしたのに、お友達を助けてくれなかったイエスに怒りを持つ転校生は、言いました。「お祈り、意味なかったね。」

 

  映画の最後に、子ども達の歌声が流れました。

 

  どんなに淋しい時でも どんなに悲しい時でも イエス様が一番 イエス様が一番

  (折り返し)

  たとえそれが どんな場合でも イエス様が一番 イエス様が一番

  だってイエス様は 神様だもの だってイエス様は 神様だもの

 

  どんなに泣きたい時でも どんなに叫びたくても イエス様が一番 イエス様が

  一番

  (折り返し)

 

  どんなにいじわるされても どんなに苦しめられても イエス様が一番 イエス様

  が一番

  (折り返し)

                                

  聞きなれた子ども賛美歌です。日曜学校でよく歌っていました。

 

  胸が締め付けられました。大事なお友達の死に直面したこの転校生は、信仰を失ってしまうのかなぁ。

 

  小学生の小さな体で悲しみを一心にこらえながら、この賛美歌を歌えるだろうか?

それは残酷なことだ、という気持ちさえしました。

 

  映画を観終わった私の気持ちは、沈んでいました。この映画が、事件のあったミッションスクールの子ども達と重なりました。

 

  どうか、信仰を失いませんように、と切に祈りました。祈っている中で、みことばをいただきました。

 

  「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい。」

 

  旧約聖書のヨブ記を思い出しました。

 

  ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっている者は、ひとりもいないのだが。」

 

  サタンは答えました。「それは、神が祝福し、守っておられるからです。あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かって呪うに違いありません。」

 

  主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」

 

  多くの災いが続けざまに起こり、十人のヨブの子達も死にました。しかし、ヨブは神に愚痴をこぼすことなく、言いました。

 

  「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

 

  主はサタンの申し出を受け入れられることがあるのです。

 

  この事件は、神が知らないで遭った事ではないことを知ってから、亡くなられた方のことを思っていました。

 

  すると、事件の時、イエスの霊もその場所に居られたことに気づいたのです。イエスは、二人の霊を慈しみ深く、ご自分の御手の中に包み、天に連れて行かれたのです。

 

  お二人の魂は、天国で慰められ、神の国の豊かさの中で、くつろいでいるのです。

 

  霊が天国に上って、帰って来た人々の証では、想像を絶する素晴らしい所で、地上に帰りたいとは思わなかった。御使いに添われ、地上に連れ戻された時は残念でならなかった、と口を揃えて言います。

 

  そんな素晴らしい所に、お二人の魂はあげられたのだと思いました。

 

  この二人は、神のもとに行きたい、と常日頃から天の御国を夢見て、イエスを愛していた、とても純真な魂だったのではないのか、と思いました。神の御国に入るのに、よく整った魂だったのでしょう。

 

  神はおふたりを殉教者の中に数えて、永遠に誉れある義の冠を与えられるのでしょう。

 

  女性の校長先生の記者会見の姿に真実な信仰を見、父兄の集まりの様子の声が流されて、教頭先生の声とお話しを聞き、その様子を知った時、ここにはイエス様がおられると強く思いました。この学校は、キリスト教ではなく、イエスのおられるキリストの学校だと思いました。

 

  神に信頼するこの方々の学校で起こった、この残虐な事件に心傷めていた私は、これらのことが教えられて、「私は神を知りませんでした。あなたのなさることは、慈しみ深く、恵み深いです」とこの偉大なる神の前にひれ伏しました。

 

  神は愛です。神のご愛は測り知れません。きっと、人は、神の愛の一部分ですら、捉えていないのでしょう。