ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

なぜ心配するのか

 

 「あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。」(ルカ12:25,26)

 

 イエスは、いのちを延ばすことを、小さなことと言われました。もし、少しでもいのちを延ばしてくれる医者がいるならば、その医者は名医と称賛されるでしょう。もし、余命を延ばす宗教があるならば、人はその宗教にすがり、その宗教の信者となるでしょう。

 

 いのちを延ばすなんて、人間にはおおよそ不可能です。どんなに科学が発展し、医療が進化したとしても、泡のような望みです。少し延命できても、やがて亡くなります。延命したわずかな年月の間に、何かを成し遂げる人がどれだけいるのでしょう。いのちの時間を測りながら、死の備えをするだけです。

 

 人間に不可能な、しかも、人間が切望するいのちの時間を延ばす偉大なわざのことを、イエスは、「こんな小さなこと」と言っておられます。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのか、と言っておられます。

 

 イエスはたとえを話されました。

 「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、考えた。『どうしようか。わたしの作物をしまって置く場所がない。こうしよう。あの倉を取り壊して、もっと大きいのを建てて、穀物や財産は全部そこにしまっておこう。そして、自分の魂に言おう。これから先何年分も食糧が蓄えてある。さあ安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』

 すると神が彼に言われた。『愚か者よ。おまえの魂は今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか。』

 自分のために蓄えても、神の前に富まない者は、この通りです。」

 

 いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。豊かな財産のある人も、今日食べるものがなくひもじい人も、同じように死んでいくのです。

 

 イエスは、弟子たちに言われました。

 「いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物より大切であり、からだは着物より大切だからです。

 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかに優れたものです。」(ルカ12:22-24)

 

 生活に疲れた時、また、明日が心配になる時に、自然界に目を移してみましょう。鳥も、小さな虫たちも一生懸命に一日一日を生きています。明日を心配しているのは、人間です。

 

 「烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、烏にえさを備えるのは誰か。」とヨブ記38:41で、全能の神が、ヨブに語っておられます。

 

 お腹を空かせた烏の子が、巣の中で鳴いています。この鳴き声は、神に届いているのです。母烏に叫んでいるのではなく、自分を生み、いのちを与えてくださった神に向かって叫んでいるのです。

 

 このみことばに出会ったとき、私はハッとしました。自然界の主人は神であられるのです。苦しむとき、悲しむとき、痛むときの嘆きは、自分のうちに起こっている孤独な声にならない呻きだと思っていました。しかし、これらの魂の呻きは、すべてのものを造られた創造主に届いているのです。

 

 烏の子のために食物を求めてさまよう母烏に、神はえさを備えられるのです。母烏の目を開き、えさを見つけさせられるのです。

 

 神はこんな鳥にも心を配り、養っておられるのです。神に似せて造られた人は、鳥よりもはるかに優れたものです。

 

 心配したからと言って、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。神の御心ならば、食物のない状況でも、生かし続けてくださるのです。食糧が十分にあっても、病気になって死ぬこともあります。

 

 危険な状況でも生き延びる人がいます。安全な日々を送っていても、突然帰らぬ人になる人もいます。すべてのことは、主の御手の中にあります。

 

 心配したからと言って、状況がよくなるわけではありません。

 

 主イエスは言われます。

 「ああ、信仰の薄い人たち。何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、神を知らないこの世の人々たちが切に求めているものです。

 しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」

 

 神は、イエスの御名を呼ぶ者たちに平安を与えられます。神の国を求め平安を受けても、明日食べる物がないならば、世の人たちのほうが勝っていると思うでしょうか。イエスは、神の平安とともに、あなたの求めているものも与えると約束しておられます。

 

 神の平安が先です。平安の中に御霊が住まい、御霊が必要のものを手にするようにと、働いてくださるのです。

 

 恐れることはありません。神が心配しておられるのです。人はイエスの御名の中に留まり、神に祈りましょう。そして、神の国の守りを受けましょう。神が賜る平安は、恐れも不安も飲み込み、どんな状況にあっても揺るぎの無い信仰を置いてくださいます。

 

 イザヤ書41:10で、神は、神を知る者たちに言っておられます。

 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

 

 神を畏れる正しい者には、神の義の右の手が伸べられているのです。