ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠のいのちを与える世の光

 

 「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。 

 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」(ヨハネ9:4,5)

 

 これは、弟子たちに語られたイエスのことばでした。

 道の途中で、乞食をしている生まれつきの盲人を見た弟子たちが、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」とイエスに質問したことの答えでした。

 

 イエスは答えられました。

 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現わされるためです。」と言われたその後に続くことばでした。

 

 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作り、その泥を盲人の目に塗り、盲人に言われました。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」

 そこで、盲人は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。(ヨハネ9:6,7)

 

 イエスは、ここで、弟子たちに二つのことを教えられたのです。生まれつきの盲人の目が見えないのは、罪の結果ではなくて、癒しを施される生ける神の御業がこの人に現われるためであること。もう一つは、神の御業は、イエスとイエスの弟子たちのいる間になされることを告げられました。

 

 人は、不具であったり、不幸なことがあると、わざわいとみなします。しかし、人を生かしておられる神には神御自身の目的があるのです。

 

 人をわざわいに陥れるための、神の処置ではありません。自分自身ではどうすることもできない状況で、人知を遥かに超えたお方の存在に出会うためなのです。そして、神の御業がその人のうちに現わされるためなのです。自分自身が体験した神の御業を、その人は否定することができません。はっきりと、身をもって経験した者は、神を否定することができません。神を信じる者となるのです。

 

 神は、神の御業が現わされる者として、生まれつきの盲人をお造りになったようです。生まれつきの盲人の目が見えるようになれば、だれもが仰天することでしょう。健常者の目が見える事は当たり前です。しかし、生まれつきの盲人には、その当たり前のことが無いのです。当たり前の事が無かった者を、当たり前の姿に創造されるのが、人を造られた創造主なる神です。イエス・キリストの父です。

 

 神の御業は、人を驚かすためではありません。人を救うためなのです。永遠の滅びから、その人の魂を救い出し、永遠のいのちを与えるためなのです。

 

 神を知らない人は、諦めます。絶望します。不幸を恨みます。しかし、その人が考える不幸の状況の中に、生ける神の御手が置かれているのです。

 

 健常者が、不幸に見舞われ、有ったはずのものを失うと、嘆きます。それが、自分のものだと思っているからです。そして、神を恨み、呪いの中に落ちて行きます。健やかで幸せに満ち祝福された者だと思われていた人が、闇を慰めとし、闇に味方する者になります。

 

 神のしもべヨブは言います。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」すべてのものを失ったヨブに残っていたものは、主への信仰でした。

 

 イエスが神の御業を現わした盲人について、パリサイ人たちの間に、分裂が起こりました。その日は、安息日でした。「その人(イエス)は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言う者たちと、「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」と言う者たちに分かれました。

 

 盲人は、言います。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

 それでも、尋問を続けるパリサイ人に彼は言いました。

 「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、その御心を行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。

 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」

 

 パリサイ人たちは答えて言った。「おまえは全く罪の中にうまれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。(ヨハネ9:31-34)

 

 律法を厳格に守るパリサイ人たちは、罪のせいで、盲目に生まれついた、と考えていました。イエスの弟子たちと同じでした。しかし、イエスは、罪のせいではなく、神の御業がその人に現わされるためだ、と言われたのです。

 

 イエスは、パリサイ人たちが、盲人であったが目が開かれた人を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。

「あなたは人の子を信じますか。」

 その人は答えた。「先生。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」

 イエスは彼に言われた。

 「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」

 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

 そこで、イエスは言われた。

 「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:35-39)

 

 盲人に現わされた神の御業は、ユダヤ人のさばきのためでもあります。生ける神に仕える者は、その御業を見て、イエスを神の人として知ります。しかし、イスラエルの神に仕えながら、律法で思いの塞がった者は、その御業を見て、イエスを罪ある者とするのです。

 

 生まれつきの盲人の目の開くことが神の御業ではなく、神は罪を測るお方ではなくて罪を赦すお方である事を知ること、また、御業をされたイエスを、神から出たお方であることを信じることが神の御業であり、栄光なのです。

 

 イエスの御業を受けた盲人であった人は、イエスに告白しました。「主よ。私はあなたを信じます。」生まれつきの盲人は肉の目が開かれただけではなく、信仰の目が開き、パリサイ人たちに会堂を追放されようとも、イエスを信じたのです。彼は、身をもって神の御業を体験し、イエスを信じたのでした。

 

 イエスを信じること、それが神の御業なのです。イエスを信じる者は、死と滅びから救い出され、永遠のいのちを受け、神の子とされるのです。

 

 イエスの御名が語られる世は、世の光(神の御子イエス・キリストの御救い)を受けることができます。

 「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』

 確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリントⅡ 6:2)