ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

大きな間違いでした

 

 イエス・キリストは、永遠のいのちを与える方だと思っていました。十字架で流された血潮で罪を赦してくださる神の御子だと信じていました。永遠のいのちを与える力ある血だと思っていました。

 

 イエス・キリストの血は、赦しの契約でした。赦しの契約は永遠に効力のあるものです。イエスが主であるとの告白に、キリストの血の注ぎがあります。契約を更新して、神の赦しを実行するキリストの血の契約の中に留まります。

 

 キリストの血があるならば、罪の赦しの契約を受け取っているのです。罪の赦しは一度だけではありません。何度でも有効です。罪に気づいた時に、告白し悔い改めた罪は赦されます。罪を隠すならば、平安が失われます。

 

 頭ではわかっているはずなのに、教会生活の中で、まるでわかっていないかのような行動をして来ました。いつの間にか、自分が信仰によって救われた恵みを忘れて、行いによって救われるかのような間違った捉え方になっていました。

 

 律法的なクリスチャンになっていました。律法的な方が信仰的に見えます。。外見が正しそうならばクリスチャン達に受け入れられるし、立派な信仰者の仲間入りができます。クリスチャンとしての常識、規定を守り善の道を歩むことで教会生活は穏やかに過ごせます。

 

 信仰的に見せる律法を着ていました。自分自分が守っていないのに、正しい者であるかのように装っていました。そして、さばいていたのです。イエスが罪を処罰してすべての罪が赦されているはずなのに、自分の弱さと戦っている人を苦しめ、罪に定めて、囲いの外に締め出していました。イエスがご自分の命と引き換えに、滅びから解放した魂を、罪ある者と定めて救いの恵みから締め出しました。

 

 彼らの悲しみはいかばかりでしょう。罪を犯した苦しみに加え、赦されない痛みを抱え、神への信仰を失っていたのです。

 

 彼らの嘆きをご覧になって、神は悲しまれたことでしょう。私は、すべての罪が赦されるという事を学んでいなかったのです。クリスチャンは罪を犯さないものと思い込んでいました。罪を犯してはならないものと思っていました。聖い者でなければならないと思っていました。

 

 私は自分自身を知りませんでした。私の中にある汚れと罪深さを認めていませんでした。正しくある事で義とされると思っていました。神は化けの皮を剥がされました。自分自身の罪と向き合う事は辛いことでした。皆この苦しみを通っていたのだ。それなのに、私は傷に酢を注いでいたのだ。真理のことばで追い詰めていたのだ。

 

 誰もが赦されたいのです。そして、イエスは赦されたのです。それなのに、イエスが赦されたイエスの羊を、私が正しくない義を立てて牢に入れたのでした。解放者イエスの弟子だと自称しながら、羊を追い立てる厳しい支配者になっていました。

 

 自分では気づいていませんでした。私は正しいことをしていると思い込んでいました。まるで、律法を厳格に守り、神への熱心でイエスの弟子達を迫害し、殺すことに賛成したサウロのようです。憐れみも愛もありません。ただ、パリサイ人として真っすぐに立つサウロでした。律法の中に神の尊厳を見ていたのです。

 

 教会生活の中に、神への信仰を見ていました。教会の働きに献身的であることが良いクリスチャンの在り方だと思っていました。「憐れみを好むが、生贄は好まない」と言われる主を知りませんでした。神は、犠牲を求めておられるわけではありません。一人一人を愛し、一人一人に赦しと癒しを与えて、解放と自由の喜びを受け神への感謝と神への信頼が増し加わることを望んでおられます。

 

 神の憐れみと恵みによって、人の罪は、イエスの赦しを体験する恵みに変えられます。赦しは、心からの感謝と賛美を生み出します。罪を責めることは、神の赦しの恵みの体験を踏みにじることでした。

 

 永遠のいのちは、正しい歩みの先にあるかのように歩んでいました。正しさはイエス・キリストのうちにあるのです。神の義(十字架の罪の赦し)の中に永遠のいのちがありました。人の正しさは役に立ちません。キリストの赦しの体験が、キリストの血の力を証明します。キリストの血の赦しが神の栄光です。神の愛と恵みが証されるのです。

 

 キリストの血で罪赦された魂が、永遠のいのちを受けるのです。兄弟姉妹の罪を咎めることが神の子の義ではなく、罪を赦してくださるイエスの御名を求め、罪の赦しを受け取ることが神の子の在り方であったと、今気づきました。

 

 永遠のいのちを守るために、正しい歩みをしなければならないと思っていました。自分の力では正しくあることは出来ません。そのような歩みには喜びも自由もありません。それは、神の義ではありません。神が不義を赦されない恐ろしい方であるから、罪を犯してはならないと努力していたのです。神の赦しを信じていなかったのです。

 

 神は人知を超えた方です。人間のようにみみっちくはありません。天も地も宇宙も所有される豊かな愛の神です。イエス・キリストの血を、「罪の赦し」と定められておられます。どんな罪も赦されます。何度でも赦されます。神は、罪の縄目と重荷から解放された魂が、神を賛美し神に感謝するのを楽しまれるのです。

 

 罪を犯したから、魂の値打ちを失うのではありません。赦しを体験した魂が神を賛美することを学び、神の御救いの栄光を証するのです。赦しを多く体験する者は、多く神を愛し、神の御救いを永遠に讃える価値ある魂とされるのです。