ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

携挙を待ち望む者の神の栄光

 

 神の栄光というと、癒しや奇跡、神のわざを現すことのように思っていました。そのわざを見て、神に立ち返る人が起こるならば、神の栄光があります。しかし、ただ人を驚かせるだけならば、天の栄光と言えない気がします。

 

 神の奇跡は、魂の救いのため、神を畏れへりくだるため、目には見えない神を見るためです。この神の栄光は人のためです。天に残される奇跡、永遠に覚えられる神の栄光は、魂の救いです。魂の救いは、地上で刈り取られた義の実となります。この実は、永遠に神の誉れとなるのです。

 

 神の栄光を現わすとは、神の不思議を体験すること、それを証することだと思って来ました。しかし、それは神の栄光ではありませんでした。神を証しする証だったのです。

 

 神の栄光とは、神の敵である悪魔を唸らせることです。神から人を奪った悪魔から、魂を奪い返すことです。悪魔の奴隷であった魂が、神のしもべとなることです。

 

 悪魔は、神になりたくて、自分が神の座に着いて拝まれる存在になること、また、神の敵を生み出すこと、神を神とせず神を憎む者いのちの神を信じない者、そして、御子イエスを嘲る者、御子に敵対する者で満たすことのために、世を荒らしています。悪魔にとって、この世は神の栄光を踏みにじるのに、働き甲斐のある場所です。

 

 人間の時間は短いです。多くの人々は百年もありません。この短い期間に神に立ち返ることを阻む手管を無数に用意しています。飴を与えておけば、多くの人間は悪魔の牢から逃げ出すことを考えません。偽りの光を与えれば、喜んでその光に群がって来ます。また、人を眠らせておけば、抵抗もしません。

 

 そんな世に、神の御子が人の子イエスとなってやって来たのです。神は目に見えないもの。見えない神をあれこれもっともらしい言葉で表現すれば、それが真理だと人間は目覚めの喜びを味わいます。しかし、実は、闇の中にいるのです。その闇に明けの明星(神の御子)がやって来ました。肉体を持つ御子は、人々に神を現わしたのです。イエスを見て、人々はまことの神を知ったのです。

 

 悪魔が恐れることは、まことの光によって、人の目が開くことです。眠りから覚め、神が神となることです。まことの光が世にあることです。

 

 神の栄光とは、敵対する悪魔の策略に勝利することです。神が神の座に着き、悪魔がイエス・キリストの足台となることです。奇跡やしるし、癒しやわざは、悪魔もします。しかし、永遠のいのちを与えることが出来るのは、まことの神だけです。神の御子を心の王座に迎えた者に、悪魔は、敗北感を味わいます。悪魔を敗北させること、これが神の栄光です。

 

 神のしもべは、神を讃えます。神に感謝します。イエス・キリストの御名で祈ります。実は、これが悪魔の敗北の証です。唇に神への賛美があり、御子イエスの御名があることは、光の働きです。闇の力を退けます。闇は光に打ち勝たないのです。弱々しい信仰でも、そこには弱々しい光があります。弱々しくても、光は闇を照らします。闇は光を飲み込むことが出来ません。光は光です。闇の中で輝きます。これが、神の栄光です。

 

 この光のあるところでは、闇は闇を保つことが出来ません。光のあるところ、たった一人の信仰者であっても、霊の世界ではそこに光が輝いているのです。神は地上に輝くその光をご覧になって安息されるのです。一人一人のクリスチャンの存在は、神の喜びです。

 

 道を歩く時、家に居る時、電車や車に乗っている時でも、神に感謝のことばを口ずさみ、神への喜びと平安があるならば、神の御国がそこに来ているのです。神の武器をもって、闇を切り裂いているのです。

 

 携挙を信じるクリスチャンも多くおられるでしょう。携挙とは、この地上から御霊が引き上げられることです。御霊を宿すクリスチャンの祈りや賛美がなくなった世は、闇です。御霊に教えられ導かれるという歩みは終わります。

 

 旧約時代のように、神が選ばれた者に聖霊が置かれる時代となります。神に立たされた者達が、神のことばや預言を語ります。聖霊のない人々は、彼らの言葉を聞き、彼らの言葉や聖書のことばが灯となるのです。

 

 今は、御霊を宿す人々の最期の働きの期間です。地上に居る間に、闇を破っていくことです。日本列島に光を満たし、魂を目覚めさせるのです。イエス・キリストの御名をもって祝福を宣言して行くところに、闇を破る光が訪れます。

 

 いつも喜び、絶えず主の御名を讃えて祈り、すべてのことに感謝することが、御霊の人の武器であり、神の勝利です。悪魔はうろたえます。神の栄光の光こそが、悪魔の敗北なのです。

 

 悪魔は聞きたくないと耳を塞ぎ、聖徒の唇から賛美を取り去ろうと働きますが、世に打ち勝つ聖徒は、神への賛美を止めません。聖徒の賛美は、地上だけではなく、悪魔が働く天まで聖めます。目には見えませんが、聖徒の賛美の中で、天使らも喜びをもって光の領域を開いていってくれます。地上で献げる賛美は、地を聖め天をも聖めるイエスの血の力を放つのです。これが、神の栄光です。

 

 賛美とは、歌うことだけではありません。主を愛し、主を楽しむこと、主を喜ぶこと、主の御名を呼ぶこと、主への祈りがすべて賛美です。小鳥のさえずりのように愛らしく、また、花の香のように香しい、イエスの喜びであり、誉れなのです。

 

 いま、地上にいて、神の栄光のために存在する恵みを感謝します。神の栄光のわざ(生きたクリスチャンの存在と彼らの感謝と賛美と喜びと祈り)は、日本列島を聖め、日本人の魂を呼び覚まします。