ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

争うことも叫ぶこともないキリスト

 

 イエスは、ついて来る多くの人をみな癒し、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。

 

 人の子イエスが地に来られたのは、人の罪を赦すためでした。生きた者と死んだ者との裁き主である主が、罪を悔い改める者に赦しを与えるために、人の子の姿で、天から来られたのです。

 

 イエスは、罪を贖う神の子羊だったのです。その時はまだ、イスラエルの王ではありません。肉体を持つ人の子でした。木にかけられ、呪われた者たちの身代わりに、生贄となって屠られなければなりません。

 

 罪人の罪を赦す、贖いの血を流すために、人の子として来られた、神の御子イエスでした。この時はまだ、イスラエルの国民に王として敬われ、尊ばれるときではありません。救いを完了しなければなりません。

 

 国民から捨てられ、呪われ、木にかけられなければならないのです。イエスは、人々に、ご自分のことを知らせないようにと、戒めておられます。

 

 「さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。

 そこで、イエスの兄弟たち(母マリアとヨセフの子、イエスの弟妹)はイエスに向かって言った。

 『あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。』

 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

 そこでイエスは彼らに言われた。

 『わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。世はあなたがたを憎むことはできません。

 しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。

 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。』

 こう言って、イエスはガリラヤに留まられた。しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。」(ヨハネ7:2-10)

 

 イエスは、御父の御計画に忠実でした。神のわざの不思議を人々に見せ、ご自分に人々の注目を集めているように、イエスの兄弟たちには見えていたのかも知れません。イエスは自分たちの家の長男です。他の人々とは違う特別な人だとは思わないで、育っているようです。人々から注目を受け、何か不思議な力で神を解き明かす兄イエスに妬みのような感情を持っていたようです。兄が自分たちよりもまさっているとは認めたくないようです。

 

 兄が神の御子であることを疑う、イエスの兄弟たちは、「あなたが神のわざと言うものを行ない、解き明かしたいなら、公の場で行ない、自分を世に現わしなさい。」と言いました。

 

 兄弟たちは、祭司たちに、神への冒瀆だとイエスが訴えられることを期待していたのかもしれません。

 

 イエスは言われました。「わたしの時はまだ来ていません。」イエスの言われた「わたしの時」とは、十字架にかかる時、贖いの時であり、復活の栄光の時のことです。

 

 「あなたがたの時はいつでも来ている。」とイエスは言われました。イエスを信じない者たちが、イエスを憎み迫害する時はすでに始まっており、それは、世の終わりまで続くことを言われたのです。

 

 イエスを憎む者は、世の者です。イエスを憎んだり、迫害したりすることは、世が受け入れることであり、誰もそれに異議を唱えません。世がイエスを憎むのは何故か。イエスが、その行ないが悪いことを明らかにし、神の裁きを語るからです。イエスの兄弟たちも、兄イエスの語る神のことばを憎む人たちだったのでしょう。

 

 イエスは御父の定められた時が満ちるまで、ご自分のことを知らせないように戒められました。

 らい病をきよめた人には、「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物を献げなさい。」(マタイ8:4)

 目が見えるようになった盲人たちには、厳しく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」とイエスは言われました。(マタイ9:30)

 汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫んだ。その時、イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、厳しく彼らを戒められました。(マルコ3:11,12)

 死んだ子供を生き返らせたとき、イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、厳しくお命じになりました。(マルコ5:43)

 イエスが「わたしをだれだと言いますか。」と弟子たちにお尋ねになりました。ペテロが「あなたは、キリストです。」と答えると、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならないと、弟子たちを戒められました。(マルコ8:29,30 マタイ16:20)

 

 人の子イエスは、ユダヤ人に憎まれ、捨てられ、木にかけられなければなりません。贖いの子羊として死ななければ、贖いの血を人々に与えることができません。神の御計画は実行されなければなりません。人の子イエスの目的は、ご自分が神の御子キリストであることを信じてもらうことではありません。神の子羊として、罪の生贄となり、贖いの血を流すことです。わたしの時(イエスが神の御子キリストであると公言する時)は、まだ来ていないのです。

 

 復活の栄光によって、神の子羊イエスは、主イエス・キリストとして、御名が知れ渡るのです。死んで、復活して、贖いの血と罪の赦しを与え、永遠のいのちを与えるキリストとして、公にされます。

 

 マタイはご自分のことを知らせないようにと、人々を戒められたイエスを思い起こして書いています。これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった、と。

 「見よ。わたしの支えるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。

 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。

 彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。

 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。

 彼は衰えず、くじけない。ついには、地(全世界)に公義を打ち立てる。

 島々も、その教えを待ち望む。」(イザヤ42:1-4)

 

 イザヤの預言したメシア預言は、まさに、ナザレのイエスその方のことだったのです。