「主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
このように、これらのものはみな、崩れ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えて崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。」(ペテロⅡ 3:10-15)
世の終わりのことは、旧約聖書でも預言されています。救世主イエス・キリストがこの世に遣わされる前から定められていることでした。聖書に書かれている世の終わりは、必ず訪れます。
人には想像できませんが、今、目で見ているものすべてが焼け溶けてしまうのです。太陽も月も星々も空も山も海もすべてです。これは映画の世界とは違います。映画だったら、それを観ている自分がちゃんと存在しています。しかし、この場合、人もすべてこの焼け溶ける中にいて、誰も生き残る者はいないということです。
天地万物を造られたのは全能の神のわざです。その神のわざを、全能の神御自身が火によって消し去られるのです。
神は、この中から、御心に適った創造物を取り出されます。それは、神のひとり子を信じ、神の御子イエスを愛する者たちです。神は、この新しい創造物を生むために、これらの被造物を造られたのです。永遠に価値ある新しい創造物の完成によって、古い被造物は役目を終え、神によって焼かれます。
聖書を信じ、神の救いを待ち望む者は、神の約束に従って、イエスを神の御子主キリストと告白してキリストの御霊とともに歩みます。そして、正しい者たちが住むとこしえの場所、義なる者たちの新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
正義の住む新しい天と新しい地を待ち望む者は、正義を愛する者です。今ある天と地では、正義は踏みにじられて悪が横行しています。新しい天と新しい地に入る者は、子羊イエスの贖いの血で聖められ、しみも傷もしわもない者です。正義の住む天と地にふさわしい者でなければなりません。
しみとは、悔い改めていない自分自身が犯した罪です。傷とは、他人にされた事を赦すことができず、赦していない罪です。しわとは、高ぶる心です。
キリストの血がすべての罪を贖ったのですべて赦されていると考えて、自分自身の犯した罪の清算ができていない場合もあるのです。御霊とともに歩むならば、罪だと自覚する新しい心が与えられて、その罪を主の御前に出して、口で罪を言い表し、悔い改めるように導かれます。
刑事番組などで、親が子の罪を被ろうとしたり、大切な人を犯罪者にしないために、やってしまった事をもみ消そうとする心情が働くのを見ます。
人としては、そういう心情を理解できますが、神はそれを見逃されません。償っていない罪は、生涯その人を苦しめます。償わないならば、罪が赦されることがないからです。その人自身の霊がそのことを知っているからです。どこへ逃げても、どこに隠れても、その思いはつきまといます。その罪から自由になることができないのです。
しかし、刑に罰せられたならば、神は罪を償った者として、罪の縄目から自由にされます。神は、その罪を問われることがありません。
他人を赦さないということは、正義の神の御前で罪となります。赦さないということは、怒りや憎しみに捕えられた状態です。怒りや憎しみは、新しい天と新しい地にふさわしくありません。赦せないことを、神に打ち明けましょう。赦せないという縄目に縛られている自分を解放してくださるように祈りましょう。
自分で握っているうちは、自分が抱えた問題です。しかし、神に告白するならば、神の御霊が助けてくださいます。長い時間がかかるかも知れませんが、御霊はひび割れた心にいのちの水を注ぎ、傷を癒し、怒りや憎しみが罪であることを気づかせてくださいます。そして、人に言われたからではなくて、自らの意思で悔い改めへと導かれます。
悔い改めるとキリストの愛が豊かに注がれて、罪を犯した人のことを握っていた手がゆるくなります。そして、罪を犯した人を赦すことを神に宣言します。すると、心は平安と喜びに満ち溢れるのです。
主イエスの血で罪赦され、神の子とされました。神の知識が増し加わると、知識のない人に対して高ぶる心が湧き上がって来ます。自分が安全な地に立ち、救いを確信すると、心が横柄になります。
心のしわは、あまり気づくことがありません。人に称賛されたり、立派な信仰者だと思われることは、人には栄誉にみえて、実は、とても危険な場所に立っていることでもあるのです。多くの賜物を持っている人もそうです。人は、多くのものを与えられた人を羨みますが、それは、多くの試みをも受けていることになるのです。多くを持たない者の方が、かえって安全なのです。
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)
悔い改めて罪を手放し、他人を赦し、へりくだることは、救いの道です。私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいるのです。
「主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを送らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。」(ペテロⅡ 3:9)
私たちの主の忍耐は救いです。主は私たちに対して忍耐深くあられるのです。主の忍耐ゆえに、悔い改めに進むときを与えてくださっているのです。
神は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進んで、永遠のいのちを得ることを望んでおられるのです。