ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰の創始者イエス

 

 「ダビデの子孫として生まれ、死者の中から甦ったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」(テモテⅡ 2:8)とパウロは言います。

 

 それは、キリスト・イエスにある救いを受けるためです。主キリストによる救いとは、罪が赦されること、神に義とされること、聖なる御霊がうちに住まわれること、死から甦ること、天の御国をキリストとともに相続することです。

 

 老いて朽ちる肉体の死人が、イエス・キリストを神の御子と信じ、主イエスが魂を救ってくださる救い主キリストであると信じるならば、神は、その人を死と滅びから救い出し、永遠の天の御国で安息する神の子どもに造り変えてくださるというのです。

 

 死人が甦り、とこしえの栄光を受けるのです。これが、まことの神のわざです。イエスは、この喜びのゆえに、辱しめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 

 パウロは、信頼すべきことばとして、次のように言っています。

 「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。

 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(テモテⅡ 2:11-13)

 

 イエスが十字架に死なれたのは、世の罪のためであり、世に対して死んだのです。イエスは、父なる神のことばに聞き従い通して、信仰に生きられました。この世と調子を合わせて生きたのではありません。この世にあって、天上の生き方をされたのです。神とともに歩まれました。神を主と仰いで、主に従い歩まれたのでした。

 

 イエスは、神の御霊によって、死から甦られました。復活のいのちです。肉体の命ではなく、復活の霊のからだの永遠のいのちです。肉体で生き返ったのではありません。永遠に生きる霊のからだで甦られたのです。

 

 もし、イエスを信じる私たちも、イエスの十字架の死とともにこの世の生き方に死んで、自分のわざではなく、神に信頼し、神により頼んで生きるならば、その人のうちに御霊が住まわれて、主イエスとともに生きる歩みに導いてくださいます。

 

 神がともにおられた主イエス、「インマニュエル(主がともにおられる)」と呼ばれたイエスの歩まれたいのちの道を辿る者としてくださいます。そして、インマニュエルなる(神がともにおられる)イエスの「神」がともにおられる者、主がともにおられる者として成長させてくださるのです。

 

 主がともにおられるとは、主イエスが成されたわざもともに現わされると言うことです。イエスの御名によって祈るならば、人にはできないことも起こります。病の癒しが起こり、心の傷が癒され、悪い霊から解放され、人には不思議なことが起こるのです。神の御霊がともにおられるからです。神の御使いたちが神の命令で働くからです。

 

 イエスの御霊とともに歩むことは、世の敵となるということも知っておかなければなりません。家族が分裂し、親しい友人たちが離れていき、孤独を味わうこともあります。しかし、耐え忍び、信仰を持ち続けるならば、地上のやがて来るべき千年王国で、キリストとともに、世界を治めることになるのです。

 

 もし、イエスを信じたことによる孤独やそしりや迫害に耐えられずに、イエス・キリストの名を否むならば、イエス・キリストもまた、地上に来られたときに、イエス・キリストの名を否んだ者を否まれます。

 

 つまり、迫害を恐れて、「私はイエス・キリストを信じていません。」「私はイエス・キリストなんて知りません。」と、人に告白するならば、イエス・キリストもまた、その人に、「あなたはわたしの民ではない。わたしはあなたを知らない。わたしから離れていけ。」と宣告されるのです。

 

 私たちの信仰の礎は、イエス・キリストにあるのです。私たちは真実でなくても、イエス・キリストは常に真実です。イエス・キリストは、永遠の昔から神の御子であって、ご自身を否むことができません。

 

 たとい、私たちの心が揺れ動き、信仰がわからなくなったとしても、信仰の礎(イエス・キリストご自身の信仰)は、堅く動かされません。

 

 イエス・キリストご自身の信仰とは、『十字架につけられ死から甦ったイエスを神の御子キリストと信じる者は、だれでも、永遠のいのちを持つ。』という、神のことばです。神のことばは、永遠に堅く立つのです。何者によっても変わることはありません。神のことばは、不変であり、真理だからです。

 

 神のことばへの信頼、神のことばへの信仰は、人の子となられた神のひとり子イエスから始まりました。信仰の父と呼ばれるアブラハムに宿ったものですが、その信仰を完成させたのは、ユダヤ人としてお生まれになった神の御子イエス・キリストでした。

 

 そして、「神の御子イエス・キリストを信じる者は、父なる神に覚えられ、裁きが過ぎ越されて神の子どもとされる。」という信仰が始まったのは、神の子羊イエスとしてイスラエルに遣わされた、神のひとり子キリスト・イエスによるのです。

 

 パウロは言います。

 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

 

 信仰は、「主がともにおられる(インマニュエル)」と呼ばれる、イエス・キリストが世にお与えになったものです。人間から出たものではありません。地から起こされたものではありません。天から下り、世にお与えになったものです。

 

 神の信仰(神の御子イエスの信仰)は、神御自身から出たものです。神から出た信仰を、神は「信仰」として受け入れられるのです。イエス・キリストの信仰は完全なものでした。父なる神に信頼し、神のことばに聞き従うイエスの信仰は、完璧なものでした。

 

 イエスは、神に従い、十字架の死まで従われました。それゆえ、神は、死から復活したキリスト・イエスに、すべてのものをお与えになり、主権者としての栄光をお与えになるのです。

 

 すべてのものをお受けになった主イエスは、ともに御国を受け継ぐ神の子どもたちの完成を待ち望んでおられます。

 

 主イエス・キリストは、神に救いを受ける者たちの救い主なのです。救い主キリストから始まった救いの「信仰」の創始者であり、また、その信仰によっていのちを勝ち取った信仰の勝利者(イエスへの信仰を持ち続け、永遠のいのちを得る者)たちを、神から受け取る、信仰の完成者でもあるのです。