ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

愛には喜びがあった

 

 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 これは、信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。」(ペテロⅠ 1:8,9)

 

 肉体を持ってイスラエルを歩まれたイエスを見たのは、イエスの弟子たちであり、その時代にいたユダヤ人たちです。

 主イエスが天に上られた後の使徒の働きの時代には、イエスが十字架にかかられたエルサレム以外の人は、実際にイエスにお目にかかったことのない人も大勢いたと思います。

 

 パウロは、復活のキリストにお会いしています。顔と顔とを合わせてイエスを見たのではなく、天からの光の中でイエスの声を聞いたのです。

 このように、イエス・キリストに出会う人がいるようです。しかし、肉体のイエスのときのように、顔かたちや姿がはっきりと見えているわけではありません。

 

 ですから、今、主イエスを信じている人で、イエス・キリストの姿、顔かたちを鮮明に見る人はいないのです。白い衣を着た姿のイエスを見ても、その顔がどうだったのかと言われると、顔はわからないのです。

 

 そして、ほとんどのクリスチャンは、復活のイエスの姿を見たことがありません。肉体のイエスを見ることがないのは尚更です。福音を聞いて、イエスを知ったのです。姿を見てイエスを知っているのではなくて、新約聖書のことばによって、イエスを知るのです。

 

 私たちは、ことばによって神の御子イエスを知りました。姿を見たわけではありません。ある人は、不思議やしるしや幻でイエスと出会ったかも知れませんが、イエスの顔かたちをはっきりと見たわけではありません。

 

 私たちは、聖画によって、また、像によってイエスの姿を見ているように感じますが、実際に見たわけではありません。本当に、その聖画や像のような姿、顔かたちであったのかも、確認することができないのです。

 

 しかし、イエス・キリストを信じています。イエス・キリストを見たことがないけれども愛しています。信仰の年数が経つほどに、イエスへの愛が深まっていく人も多いと思います。そして、その愛には喜びが伴っています。

 

 その喜びとは、言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びです。人に感じる喜びとは違います。愛する人を想う喜びとも違います。腹の底から湧き上がる喜び、誰も取り去ることのできない栄えある喜びです。勝利の喜びです。

 

 体験した者にしかわかりませんが、説明のつかない、理屈ではない喜びです。この喜びは、「イエスを信じる信仰の結果である、魂の救いを得ているからだ。」とパウロは言っています。

 

 救われた者の喜びです。魂の救いを得た者の救いの喜びのようです。神の怒り(最後の裁き)が過ぎ越されたのです。神の怒りを受けることのない者とされたのです。

 

 神がイエスを信じる者たちに与えてくださった御霊によって、約二千年前に十字架で死なれたイエス、死から復活されたキリストを、見てはいないけれども愛する愛をいただいています。その愛が信じる者のうちで喜びとなっているのです。この喜びは、心おどる喜びなのです。

 

 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」(ヨハネⅠ 4:10)

 

 私たちは、神に愛されているのです。神御自身の愛するひとり子を、私たちの罪の身代わりに生贄としてくださるほどに、私たちは神に愛されているのです。神の御子は、ご自分のいのちを私たちにお与えになったほどに、私たちを愛しておられるのです。

 

 神の愛によって、私たちは神の裁きを恐れる者ではなくなりました。死を恐れる者ではなくなりました。神の御子イエス・キリストを信じる信仰と、神の御国で永遠に生きる希望と、神の愛を得たからです。神を愛する者とされたのです。

 

 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないからです。

 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネⅠ 4:18,19)

 

 主キリストの贖いの血によって刑罰は過ぎ越されるのです。恐れることはありません。神が愛してくださっています。だから、私たちも神を愛します。この愛には、希望と喜びがあります。

 

 以前、赦せない心を抱えてうめいていた頃、私は、そんな状況を許しておられる神に腹を立てていて、神に対してもわだかまりを持っていました。そんな時、聖霊の助けを受けました。

 

 理屈ばかり並べる私に、突然、赦せなかった人々を赦す祈りの言葉を与えられたのです。まさしく、与えられたのです。私の口から出る祈りですが、それは私自身の意思ではなく、うちなるお方御霊の祈りが私の唇にのぼったという感じでした。

 

 祈っている私自身が驚いたのです。ずっと恨みのような心を抱えていた私が、赦す宣言をしているのです。「なぜ?」と思いながら、私は祈りの言葉を続けていました。(この祈りは私の祈りではない。)と直感しました。御霊に動かされているようでした。導かれていたのではありません。なぜならば、私には赦す意志がないので、導きに従うことができませんでしたから。

 

 「この人を赦します。あの人を赦します。」と一人一人の名前をあげて赦しました。赦した後で、(あっ、祝福しなければ。)と思い、一人一人の名前をあげて、祝福しました。

 

 すると、突然、愛が私を取り囲みました。右からも左からも上からも下からも神の愛が押し寄せて来ます。神の愛の中にすっぽりと包まれました。それは、息ができないほどの強い愛でした。ぎゅっと抱きしめられて身動きができないような愛でした。私のまわりの空気が圧縮されるような、圧迫感を感じるような激しい愛でした。

 

 私は、神の愛の中に入れられ、ただただ喜びしかありませんでした。人への思いも過去の痛みも未来の不安も、何もありません。「私は神を愛しています。」とか「感謝します。」とかいう思いもありません。理屈はありません。「私」という存在がないのです。

 

 私は神に愛されているとも、私は神を愛しているとも、何もないのです。ただ喜びだけでした。名詞も形容詞も動詞もない存在、私という個人はありません。神の愛の中で、喜びとして存在していました。

 

 神の御国は、時間も空間もない世界だと聞きます。時間がないのですから、長いとか短いとかの感覚はないのでしょう。地上で考える「永遠」とは違うようです。人は、永遠を時間で捉えようとしますが、地上で考える膨大な時間というものではなさそうです。

 

 神の愛の中には、喜びがありました。今、地上にいる私たちキリストを信じる者は、神の御霊によって、言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどり、御国を味わっているのです。