ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の喜び

 

 「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する御自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:8-11)

 

 私たちが、自分が神に敵対する罪人であることも知らない滅びゆく罪人であったときに、神のひとり子キリストが、私たちのために死んでくださいました。

 なぜ、神の御子は死ななければならなかったのでしょう。それは、罪人の罪の身代わりの生贄の子羊となられたからです。

 

 私たちの罪は、神に対する罪でした。私たちを造ってくださった神に対しての罪です。神を神としない罪です。神に敵対する悪魔を父として生き、悪魔を神だと信じる的外れな意識を持って生きているのです。

 いのちは神のものです。そのいのちを自分のものだと信じて、創造主を知ろうとしない罪です。人は、創造主であるまことの神に対して、不遜な者です。自分がなぜ今存在しているのか、なぜ生まれてきたのか、人はなぜ死んでいくのか、神が造られた自然を目にしていても、神の摂理に思いが届かない、盲目の者です。思いの暗い者です。

 

 私たちの霊が死に定められていることに気づくことがありません。いのちは神のもの、創造主のものです。創造主である神から離れた被造物は、いのちから外れたものです。いのちから外れたものに用意されたものは、死なのです。

 

 私たちは、自分が死に定められた者であることに気づいていませんでした。

 「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」(へブル9:27)

 これが真理です。真理とは、神であり、神のことばであり、神のみ旨です。人の入り込む余地はありません。人の思いや計画や望みによるものではなく、だれによっても変わることがなく、どの時代どの民族どこの国にも通用する普遍的なもの、永遠の昔から永遠に堅く立つ神御自身です。

 私たちは、神を知らず、真理を神の外に探し求めてきました。浮草のように不確かで儚い私たちは、確かなものを切望します。自分の存在の目的、また、自分の心が憩う確かなものに憧れます。

 

 それは、永遠を思う思いが私たちのうちに植え付けられているからです。

 神のことばである聖書に、このことが書かれています。

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、はじめから終わりまで見極めることができない。」(伝道者3:11)

 

 神を知らない、神の知識のない、神から遠く離れた滅びゆく私たちをご覧になって、神は私たちを憐れまれました。

 

 神を知らない、神を知ろうとしない罪人と和解するために、被害者である神の方から加害者である罪人の罪の赦しを申し出られました。人を造られた神は、最後の裁きをなさる神です。罪人を赦すためには、罪がない状態にしなければなりません。罪を見過ごすわけにはいきません。

 

 裁き主である神の用意された和解は、御自身のひとり子に肉体を造って、神の生贄の子羊とすることでした。その子羊が罪人の罪の身代わりとなるのです。神の御計画どおり、神の御子イエスは、神の祭司の国民に屠られ、罪の贖いがなされました。

 

 神に造られた人が神に犯した罪を、人を造られた神ご自身(神の御子)の死によって贖い、神の御子キリストの血によって人の犯した罪を赦し、罪人の罪を帳消しにしてくださったのです。

 イエス・キリストを信じる者は、キリストがすでに罪の処罰を代わりに受けてくださったので、罪が赦された者、神に義とされた者として、裁きが過ぎ越されるのです。

 

 私たちは、神を神とせず、いのちの神から離れた罪人、神から離れて死んでいく罪人であったのに、神の御子イエスの贖いの血によって、罪が赦されて、いのちの神に立ち返る者、私たちにいのちを与えてくださった神のもとに帰り、神の中で生きる者としてくださったのです。

 

 裁き主なる神に裁かれる罪人であった私たちは、神の御子キリストの血によって、神に義と認められ、イエスのことばとキリストの御霊によって、神の怒り(神の裁き)から救われるのです。このことによって、神が私たちを愛しておられることが明らかになりました。神は、私たちが滅ぶこと、裁かれることを望んではおられないのです。

 

 以前は、神に敵対する悪魔とともに、神に敵対する罪人でした。神が支配される天の御国に入ることが許されていない罪人でした。しかし、御子の死によって神と和解させられた私たちイエス・キリストを信じる者は、キリストの復活のいのちによって救いにあずかるのです。

 

 神が私たちに御子イエスをくださったのは、私たちの罪を赦して義とするためだけではありません。私たちが主キリストのいのちをいただき、神の愛の中に入るためです。それで、御子イエスによる救いを受けた者は、イエス・キリストの御名によって、天の父を仰ぎ、神を喜ぶ者とされたのです。

 

 友人が以前、思春期の娘さんに手を焼いていたことを思い出します。その頃の友人は言っていました。「本当に涙が出るよ。」

 それでも、娘さんのために変わらず食事を作り、洗濯をし、愛の行ないをし続ける友人に頭が下がりました。母親っていうのはすごいな、と思いました。子どものいない私にはわかりません。どうやって耐えているのか、聞きました。

 幼児の頃の娘さんを思い出すのだそうです。反抗期真っただ中の娘さんを目にしながら、心の目は幼い頃の娘さんの姿を見ていたのです。「お母さぁ~ん。」と言いながら、胸に飛び込んで来た時の感触が今でも忘れられない、と言っていました。何ものにも代えがたいと心から可愛いと思っていた自分自身の思いが蘇ると言っていました。

 

 女の子というのは、母親に厳しいです。辛辣な言葉を平気で浴びせかけます。私自身もそうでした。よそのお母さんの方が良いように思っていました。

 しかし、年を経ると、どんなひどいことを言っても、親として面倒を見続けてくれたことが、愛だったとわかります。他人だったら、とっくに放り投げ出されていたことでしょう。

 

 「お母さんの子どもで良かった。」「お母さん、私を産んでくれてありがとう。」という言葉は、何よりの賛辞です。言葉として、口に出すならば、お母さんの苦労はすべて報われます。

 

 神が私たちを創造してくださいました。

 「神様、私を造ってくださってありがとう。」

 「神様、私を生かしてくださってありがとう。」

 「神様、いのちをありがとう。」

 と声に出して、神に伝えるならば、神の喜びが私たちのうちに大きく広がっていくことでしょう。