ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

律法の下にいない新しい人

 

 パウロは言います。

 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

 しかし、御霊に導かれるなら、あなたがたは律法の下にいません。

 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

 前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」(ガラテヤ5:16-26)

 

 神のことばを守ることに厳格であろうとしながら、互いに嚙み合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。「気をつけなさい。」(ガラテヤ5:15)とパウロは言います。

 

 律法全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。神は愛です。神は、愛の中に住まわれます。

 イエスも、律法の中の大切な戒めについて、

 「第一の戒めは、『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』。第二の戒めは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっている。」と言われました。

 

 愛がすべてを覆うのです。愛は献身であり、愛は赦しです。

 「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべてのそむきの罪を覆う。」(箴言10:12)

 古い人のまま肉の思いで対処すれば争いを引き起こし、御霊に導かれて御霊の力で対処するならば、愛に覆われて、すべての悲しみも痛みも苦しみも憎しみも怒りも主に打ち明けて、主にゆだねる信仰に導かれます。

 

 これは、復活の主イエス・キリストの与えられるキリストの御霊のわざです。律法の下にいる者には理解できない、新しい人の歩みです。

 うちに住まわれる御霊が、その人の状況に働いて多くの悲しみや痛みを通して肉の思いを砕き、肉を十字架につけることを学ばせられます。御霊によって生きるなら、御霊に導かれて、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに十字架につけて、新しい人に造り変えられていくのです。

 

 パウロは言います。

 「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。異邦人(神の御子イエス・キリストを知らない人々)がむなしい心で歩んでいるように歩んではいけません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。

 しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。ただし、本当にあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。

 まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:17-24)

 

 キリストが授けてくださる御霊によらなければ、決して天の御国に入る新しい人になることはできません。御霊を受けても、御霊に導かれて歩まなければ、古い人を脱ぐことができません。

 

 「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」(エペソ5:1)

 神にならうとは、御霊にならうことです。御霊は、キリストの思いであり、キリストの御霊です。キリストの思いは、神の思いです。御霊にならう者は、神にならう者なのです。

 

 「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は、主(神の御子キリストの罪の贖いの血と、もうひとりの助け主御霊の新しい創造)にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。―光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。―

 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを御霊の助けによって見分けなさい。実を結ばない暗闇のわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」(エペソ5:8-11)

 

 「むなしい言葉に、騙されてはいけません。不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者、これが偶像礼拝者です。神の怒りが下ります。こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。ですから、彼らの仲間になってはいけません。」(エペソ5:6,5,7)

 

 キリストの死にあずかる水のバプテスマによって、私たちはキリストにつき、キリストとともに、肉は葬られました。キリストが聖霊によって死者の中から甦られたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするために、聖霊を受けました.。

 

 私たちは、キリストのからだによって、律法に死にました。そして、聖霊(キリストの御霊)によって、死者の中から甦られたキリストと結ばれました。それは、神のために実を結ぶようになるためです。

 

 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結んでいました。

 しかし、キリストの十字架の死によって、わたしたちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、罪の違反から解放され、その結果、古い律法によらず、心に御霊を受けて、新しい御霊の律法(御霊に聞き従う)によっていのちの実を結ぶ者となったのです。

 

 律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物のため、また、健全な教えに背く人々のため、肉なる人々のためにあるのです。

 

 御霊を受けた新しい人は、律法の下にはいません。キリストが十字架の贖いの血で律法の呪いから解放してくださったのです。

 キリストの御霊は、私たちの心に霊的な割礼を施されます。そして、心に新しい律法(生かす御霊)を与えて良心をきよめてくださるのです。新しい律法とは文字の律法ではありません。

 

 「私たちは、心にキリストの血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われた(罪を認め悔い改めによって心は一新された)のです。」(へブル10:22)

 

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント二5:17)

 

 私たちは、キリストの十字架の死とともに肉に死に、御霊とともに歩んでキリストの御霊によって、天の御国に入る霊の人に造り変えられます。

 肉に従って生きる者ではなく、御霊によって生きる者とされ、ひとりよがりな良心(この世の良心)をきよめられて、神を主とするきよい良心をかたち造られて、キリストに似た者、天の御国で生きる新しい人とされるのです。