ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

静けさに住まわれる神

 

 「神である主、イスラエルの聖なる方(全能の生けるまことの神)は、こう仰せられる。

 『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』

 しかし、あなたがた(ユダヤ人)は、これを望まなかった。」(イザヤ30:15)

 

 神は三位一体(御父、御子、聖霊)の交わりと調和の神です。神は、人を御自身の交わりに入る者として、神に似せて造られました。神は、人の霊との交わりを望まれる、霊なる存在のお方です。霊で捉えるお方です。永遠の昔から存在しておられる、目に見えない御力であり、栄光の輝きです。

 

 想像してみましょう。愛に満ちた荘厳な光に包まれたとき、人はどんな反応をするでしょうか。騒ぎ立てるでしょうか。踊り回るでしょうか。

 ただ、息をのむのではないでしょうか。驚きと驚愕で声も出ないように思います。ただ、目に映る崇高な輝きに恐れをなし、聖なる存在の前に固まってしまうのかも知れません。

 

 アハブ王の妻イゼベルは、預言者エリヤを殺すことを誓っていました。

 「彼(エリヤ)は(イゼベル)を恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。『主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。』

 彼(エリヤ)がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、『起きて、食べなさい。』と言った。

 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼石で焼いたパン菓子一つと、水のはいった壺があった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。

 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、『起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。』と言った。

 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は『エリヤよ。ここで何をしているのか。』と仰せられた。

 エリヤは答えた。『私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て(バアルに仕え)、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼ら(イスラエルの人々)は私のいのちを取ろうとねらっています。』

 主は仰せられた。

 『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

 エリヤはこれ(細い声)を聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入り口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。

 『エリヤよ。ここで何をしているのか。』

 エリヤは答えた。『私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼ら(イスラエルの人々)は私(エリヤ)のいのちを取ろうとねらっています。』」(列王記第一19:3-14)

 

 この後、エリヤは神からことばを受けて、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油を注いで、エリヤの後継者(エリヤに代わる預言者)としました。

 その後、神はエリヤをたつ巻に乗せて天に引き上げられました。一台の火の戦車と火の馬とが現われ、エリヤは生きたまま、たつ巻に乗って天へ上って行ったのでした。

 

 一夜を過ごしたほら穴の中で、エリヤは主と会話をしています。神は、外に出て、主の御前に立つようにと命じられました。

 

 主が通り過ぎられると、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕きました。自然界の中で現われる人手によらないわざ(山々に起こる現象や砕かれた岩)は神のみわざだったのですね。

 神が通り過ぎられましたが、エリヤは風の中に主を見出すことができませんでした。風のあとには地震が起こりました。しかし、地震の中にも、エリヤは主を見ることができませんでした。地震のあとに火がありました。不思議な現象が続きますが、火の中にも神の存在を確認することができませんでした。

 火のあとに、かすかな細い声がありました。主です。主の御声です。

 エリヤは主の細き声を聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入り口に立ちました。

 

 人は、大風や地震や自然火の超自然現象の中に神の御力を感じて、神を恐れます。しかし、エリヤは現象ではなく神御自身を求めていました。風の中にも、地震の中にも、火の中にも神御自身を捉えることができません。神のわざを見たエリヤは、わざではなく、神御自身を待ち望んでいたのです。

 エリヤは、火のあとのかすかな細い声を聞き逃しませんでした。

 

 エリヤは、神のかすかな声を捉えると、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入り口に立ちました。

 主の細き声は、「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と言いました。ほら穴の中で仰せられたことと同じことを言われたのです。そして、エリヤもまた、ほら穴の中で言ったことと同じことを答えました。

 

 しかし、ほら穴の中とは別の状況です。今は、主の御前に立っているのです。神は、エリヤを御自身の前に立たせて、語られました。

 

 霊なる神は、人との交わりを大切にされます。

 神は、顔と顔とを合わせてモーセに語られました。しかし、神の栄光の輝きを見るならば人の目はつぶれてしまうので、神は御手でモーセをおおわれました。神が御手をのけたら、モーセは神のうしろを見るけれども神の顔は決して見ることができませんでした。

 

 主はモーセに仰せられました。

 「あなた(モーセ)はわたしの顔を見ることはできない。人はわたし(全知全能の神)を見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33:20)

 

 神は、ことばで現われ、細き声で語られます。大きな声ではありません。心を研ぎ澄まし、神御自身に意識を集中します。すると、聞こえるかすかな御声です。神は霊なる存在です。神のことばは肉の耳ではなく、意識の耳に届けられます。

 

 私たちの主イエス・キリストご自身も、いつもひとり寂しい静かな所へ行って、父(天の神)に祈られました。

 

 アフリカなどで、激しく太鼓をたたき、踊り回るのは、霊を高揚させて神を感じるためだそうです。そうしないと、神を感じることができないのだそうです。

 しかし、日本の神社には静寂が漂い、日本人は静寂の中に聖なるお方、神の臨在を味わっています。

 

 そういう意味では、日本人は、モーセやエリヤに会われた聖書の神に対してと同じように、神の前に立ちます。そして、自分のことば(祈り)をもって静かに祈ります。静寂の中に、神を感じ取っているのです。

 

 日本の神社は、古代イスラエルの聖所によく似ていて、中に入ることはできません。社の外から祈ります。おそらく日本人は、神を霊なるお方として知っているのでしょう。聖書を知らない民なのに、日本人は聖書の神を知っているかのように行なっています。

 

 神の御前に静まりましょう。主は恵もうと待っておられます。

 「それゆえ、主は、あなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。

 幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。

 ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。

 たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師(いのちの道へ導く方)はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く。」(イザヤ30:18-21)

 

 私たちを造られいのちを与えられる、生けるまことの神は、静けさの中に住まわれる神です。主は、私たちとの交わりを楽しまれる愛と交わりの神です。私たちの霊が神を仰ぎ静まるとき、主との交わりに導き入れてくださいます。