ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

救世主となられる人の子とは誰ですか?

 

 ユダヤの祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシャ人(ユダヤ教に改宗したギリシャ人)が幾人かいました。彼らが「イエスにお目にかかりたい。」と弟子のピリポに頼むと、ピリポとアンデレがイエスに話し、イエスは彼ら(礼拝に来ていた群衆)に答えて言われました。

 

 「人の子(ナザレのイエス)が栄光を受けるその時が来ました。(ナザレのイエスが、十字架につけられて、天の神に油注がれたキリストー救世主ーの栄光を現わす時が来ました。)

 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。(十字架の苦しみからお救いください。)』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。(罪を贖って世を救うために、肉体を造られた神のひとり子イエスは、贖いの神の子羊として遣わされたのです。)

 父よ。御名の栄光を現わしてください。(ナザレのイエスが、「キリスト」ー世の罪を取りく贖いの神の子羊であり、死から甦って永遠のいのちを得させる救世主ーであることを証し、神が世に与えられた「救い主」の御名が「イエス・キリスト」であることを現わしてください。)

 

 その時、天から声が聞こえた。『わたしは栄光をすでに現わした(ナザレのイエスにおいて、病人を癒し、悪霊を追い出し、奇蹟を起こし、死人を生き返らせ、御自身(御父)について、神の御国について、永遠のいのちについて、真理を明らかにした。)し、またもう一度栄光を現わそう。(ナザレのイエスにおいて、世の罪を取り除く神の子羊イエスの罪の贖いの血を流して、世の罪を取り除き、死と滅びから救い出す、キリストとしての栄光を現わそう。)』

 そばに立っていてそれ(御父ー生ける神ーの御声)を聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、『御使いがあの方(ナザレのイエス)に話したのだ。』と言った。

 イエスは答えて言われた。

 『この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者(悪魔)は追い出されるのです。(キリストの十字架の血によって罪の縄目を砕かれ罪の呪いから解放される者ーイエス・キリストを信じる者ーから、罪の奴隷として支配していた悪魔は追い出されるのです。そして、悪魔の支配から解放されたキリストの民にキリストの御霊を住まわせます。彼らは、悪しき悪魔の奴隷から聖なる神の奴隷となるのです。)

 わたし(イエス・キリスト)が地上から上げられるなら、わたしはすべての人(イエス・キリストを信じ神の奴隷となった人々)を自分のところ(天の御国)に引き寄せます。』

 イエスは自分がどのような死に方で死ぬか(エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に甦る)を示して、このことを言われたのである。」(ヨハネ12:27-33)

 

 キリストについて聖書に書かれた預言は、ナザレのイエスにおいてことごとく成就するのでした。

 

 「そこで、群衆はイエスに答えた。『私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、「人の子(キリスト)」は(十字架に)上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子(キリスト)とは誰ですか。』

 イエスは彼らに言われた。

 『まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。』

 イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。」(ヨハネ12:34-37)

 

 ユダヤ人やユダヤ教徒たちは、イエスにいろいろ質問してイエスが答えてくださったにも関わらず、イエスを信じることができませんでした。ナザレのイエスが、聖書に書かれているキリストだと信じることができませんでした。

 

 光は、天から来られた神のひとり子イエス・キリストです。闇は、この世を支配する悪魔です。悪魔は、欲望のままに生きることを「自由」として教えます。実は、自由ではなく、闇に捕らわれた罪の奴隷なのです。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。彼らは、彼らのいのちの結末(死後の裁きと永遠の滅び)を知らないのです。

 

 預言者イザヤが、「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたし(神)が彼らを癒す、ということがないためである。」(イザヤ6:10)と言ったのは、イザヤが神のひとり子イエスの栄光を見たからで、後に来られるキリスト(ナザレのイエス)をさして言ったのです。

 

 ユダヤ人たちは、キリスト(救世主)はいつまでも生きておられる、と聞いていました。しかし、目の前で語るイエスは、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子(キリスト)もまた上げられなければなりません。」(ヨハネ3:14)と言われるのです。

 

 ユダヤ人たちは、栄光をお受けになったキリスト(いつまでも生きておられるキリスト)のことを教えられていました。

 しかし、イエスは、キリストは多くの苦しみのあとで栄光を受け、永遠に生きるキリストとなることを教えておられたのです。

 

 キリストは、罪の贖いの血を流して罪の縄目を打ち砕き、死と滅びから救い出して永遠のいのちを得させる救い主です。この世から救い出し、天の御国に引き上げる救世主です。

 

 「人の子」として来られた神の御子イエス・キリストは、青銅の蛇のように木に掛けられ呪われた者となってくださいました。

 「人の子」は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。イエスへの懲らしめが私たちに平安(神との和解)をもたらし、イエスの打ち傷によって、私たちは癒されました。(神に罪を赦され、義とされました。)

 

 「人の子」は、木に掛けられて私たちの罪の身代わりに死んだだけではありません。三日目に、死から甦られたのです。

 「人の子」イエスは、永遠に生きるキリストとなられました。イエスは、イエスを神の御子キリストであると信じ「主」と告白する者のうちに生かす御霊を授けて、永遠のいのちを得させるキリストです。

 

 「どうしてあなた(イエス)は、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」の群衆の問いの答えは、十字架にかけられて呪われた者となってくださったナザレのイエスです。聖書に書かれた人の子(キリスト)は、ナザレのイエスのことでした。

 

 イエスは大声で言われました。

 「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方(唯一のまことの生ける神)を信じるのです。また、わたし(イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わした方(創造主であられる父なる神)を見るのです。」(ヨハネ12:44,45)

 

 永遠のいのちは、神のひとり子イエス・キリストとともにあり、キリストが授ける生かす御霊のうちにあるのです。

 永遠のいのちは、神の御子イエス・キリストへの信仰と愛によって授けられるキリストの御霊に教えられ、キリストの歩まれた道に導かれて、父なる神から与えられます。

 

 「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:25)

 自分の思いを大事にし自分を愛する者は、この世の喜びを求めて自分の欲望とともに生き、裁き主である神の設けられたいのちの道(キリストの十字架の贖いの血を受けてキリストの御霊に従い、神の子どもとされる歩み)を歩むことなく、永遠のいのちを得ることがありません。

 一方、この世を楽しむことや世の誉れを求めず、まことのいのちを与えてくださる神の御子イエス・キリストを愛し、キリストの御霊とともに生きるならば、永遠のいのちを得るのです。