イエスに十二弟子を遣わされる時に言われたことばです。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:37-39)
神がモーセを通してイスラエルにお与えになった十戒の第五戒に、父と母を敬えとあります。
父や母を愛することは、親孝行な子どもであり、律法にかなっているのではないでしょうか。それなのに、イエスは、「わたし(イエス・キリスト)よりも愛してはならない。」と言われるのです。イエスは、自分だけを愛の対象とさせる独善的な独裁者でしょうか。
イエスはまた、「わたしよりも息子や娘を愛してはならない。」と言われます。親が子を我が身のように愛することは、「愛」の本質なのではないでしょうか。この愛によって、被造物の営みは途絶えることなく続いているのです。この愛がなければ、生き物は滅んでいるでしょう。親が子に食べ物を与え、子を外敵から守り、養い育てていのちが繋がっているのです。
父や母を愛することも、息子や娘を愛することも、律法にかなったことです。神に受け入れられる良い事です。
聖書が律法であり、文字の律法に仕えている間は、それで良かったのですが、聖書のことばを実現する預言者が世に現われて、律法をしのぐ新しい律法が与えられました。
その新しい律法は、文字ではありません。石の板に書かれた文字ではありません。人の霊に住まわれる、いのちの律法です。
文字の律法を完成させて、いのちの律法(生かす御霊)を与える預言者(キリスト)が、世に現われたのです。
文字の律法は、イスラエルをを律法の下に置き、律法の奴隷として、彼らを苦しめました。律法の違反による呪いを恐れ、喜びも楽しみもありません。律法を持たない異邦人と比べて、律法の違反におびえながら生きる人生は、何と不自由なことでしょう。
生きているけれど、死んだ者のようです。神は、世界を豊かな色彩で彩られ、天の御国の麗しさを現わしておられます。世界にあるものは、神が造られました。目に映るものは、神の栄光を現わす被造物です。空も、鳥も、緑も、花も、変わりゆく季節も、神が生きておられることと、神の創造の麗しさを現わしています。
光にはいのちがあるので、色彩豊かです。死んだものは、色を失います。光がないので、すべては闇の中、色彩がないのです。
神を知る者は、目に映る自然の恵みを讃え、神を崇めます。神は、ほめたたえられるのに、ふさわしいお方なのです。
しかし、律法の下にいる人々は、律法を守ることに心を砕くうちに、いのちの神を見失ってしまいました。自然界のうちに働かれる生ける神が見えなくなってしまったのです。律法を通してでなければ、神を知ることができなくなってしまいました。
神は生きた方で、霊なる方です。生きた方を目の前にしながら、生ける神と会話せずに、昔いただいた手紙を読み、その手紙から神の御意思を探ろうとするのです。
かつて律法をお与えになった神は、御自分のひとり子に肉体を造り、律法の民イスラエルに遣わされました。イスラエルは、人となられた神のひとり子イエスを見たのです。神の御子が人の子となって来られ、神が、イエスの口で語っておられるのに、律法に思いが覆われ、思いが暗くなっているイスラエルは理解できませんでした。
神御自身がイエスとなって来られたのに、神の御子よりもかつていただいた手紙(聖書)を愛するのです。神と会話するよりも、聖書により頼むのでした。聖書をお与えになった当事者(神)よりも、聖書に権威を置くのです。
律法の完成者(神のひとり子イエス・キリスト)が律法の呪いから解放し、永遠のいのちを与えるために来られたのに、イスラエルにはわかりません。人の姿(人の子)となって目の前におられる神の御子のことばよりも、聖書に信頼します。彼らは、聖書のことばを与えた神の御子に、聖書のことばで反論し、立ち向かいます。どうしたことでしょう。
神の御子は、聖書のことばを成就するために来られました。聖書のことばは、神の御子がイスラエルに遣わされることを知らせ、神の御子キリストが来られたならば、その方(キリスト・イエス)に聞き従うように、と命じています。
律法の奴隷と化したイスラエルは、律法に従いながら、いのちを見出すことができませんでした。いのちの主(神のひとり子イエス・キリスト)が来られたのに、彼(ナザレのイエス)がキリストであることを理解することができなかったのです。
彼らは、律法を守り、父や母を敬い、父や母を愛し、息子や娘を愛しました。神の御子キリストは、父や母、息子や娘を神以上に愛することは、神の国にふさわしくないと言われました。神の国は、神が主であり、神がすべてのものの愛の対象なのです。神を愛する者は、神の愛のうちにいるのです。
神は神のひとり子を御自分の瞳のように愛されます。神の御子は、御自身だからです。父なる神と子なる神はひとつです。
しかし、イスラエルの罪を贖うために、神は、ひとり子を憎まれました。神は、神のひとり子から御子としての栄光の御姿を取り去り、肉体を造って女から生まれる人の子とされたのです。
神は、神の律法の下にいるイスラエルにいのちを与えるために、罪のないひとり子を生贄の子羊として十字架で処罰されました。神は、イスラエルを愛するために、ひとり子を憎まれたのです。神は、ひとり子を呪われた者として木にかけ、罪ある者として処罰されたのでした。
神のひとり子イエス・キリストは、イスラエルの罪の贖いのために死なれました。彼は、ダビデの王座につくとこしえのイスラエルの王です。キリスト・イエスは、ご自分の民を生かすために死なれました。イスラエルは、王であるキリストによって、生きたものとなるのです。永遠に生きるものとなるのです。
イスラエルの王は、ご自分の民イスラエルのために、いのちを捨てる良き王です。イスラエルは、キリストのいのちの代価でいのち(生かす御霊)を受けます。キリストの血の代価で、永遠のいのちを得るのです。
民のためにいのちを捨てたキリストは、父なる神の赦しを受けられました。神は、不信仰なイスラエルを赦して和解を受け入れられたのです。キリストは、御霊によって死から甦り、生かす御霊となられました。
十字架の主イエスを受け入れる者は、生かす御霊を受ける者です。生かす御霊は、キリストの御霊だからです。生かす御霊を受けた者は、永遠のいのちを得るのです。
「わたし(イエス・キリスト)よりも父や母、息子や娘を愛する者は、わたし(神の国)にふさわしい者ではない。」とは、イスラエルの王のことばです。
キリストが治められるイスラエルは、神の国です。罪の贖われた神の国です。神の国の国民は、父なる神に似た者、御子キリストに似た者でなければなりません。
神が御自身のひとり子イエスを憎んで、イスラエルを愛されたように、神の国に入る者は、父や母、息子や娘よりも、イスラエルの王(神の国の王)を愛する者なのです。
父なる神は、イスラエル(神の民)のために、愛するひとり子を燔祭の生贄にするという十字架を負われました。
神のひとり子イエスは、神の民のために、ご自分のいのちを与えられました。神の民の罪を贖うために、十字架にかかられました。イスラエルはイエスがキリストであることを理解せず、ユダヤの議会でイエスを「神の子」と名乗り聖なる神を汚す者と審判し、ナザレのイエスを「神を冒瀆する者」という大罪に定めて十字架にかけ、ののしり、嘲り、憎み、殺しました。
神の国は、神(父なる神)も王(キリスト)も、国民も、神の国のために自分の十字架を負う国です。神は、イスラエルを愛し、イスラエルの王は神の民を愛し、永遠のいのちを得させられます。へりくだった聖霊は、卑しい土の器で不完全な人を御住まいとされます。神のしもべ(キリストの弟子)のうちに住まわれる「生かす御霊」は死んでいた者を生かし、新しい人に創造されます。
新しい人は、父や母、息子や娘よりもキリストを愛した者たちです。神の国は犠牲(十字架を負うこと)と愛によって建て上げられます。
愛は、自らを犠牲にします。神の国に「私」は存在しません。「わたし」は神おひとりです。神は「わたしはある。」と名乗られるお方であり、すべてのものは、この「わたし(神)」の中にあるのです。
イスラエルの王としての主権を御父から与えられるキリストは、いつも、「わたし(父なる神)」のみ旨を語り、御心を行なわれました。イエス・キリストご自身がわたしではなく、御父がわたしだったのです。
イスラエルは、聖書の成就を見たのに、イエス・キリストを受け入れません。それゆえ、神は仰せられます。
「実に、わたしの民は愚か者で、わたしを知らない。彼らは、ばかな子らで、彼らは悟りがない。」(エレミヤ4:22)
神に贖われたイスラエルを治められるイスラエルの王イエス・キリストは言われます。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」