ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

地上にきたる神の国

 

 「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

 (神の子どもたちが現われるならば、)被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」(ローマ8:19-21)

 

 クリスチャンは、みな、「主の祈り」を知っています。 

 「天にまします我らの父よ。

 願わくは御名をあがめさせたまえ。

 御国を来たらせたまえ。

 みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

 我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

 我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

 我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。

 国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。

                            アーメン。」

 

 祈り方がわからなくても、この「主の祈り」をするならば、神に届いているのです。

 

 「天におられる私たちのまことのお父様。どうか、私たちにあなたの尊いお名前を呼んであなたを崇めさせてください。

 あなたが治められる御国を地上に来たらせてください。あなたの御心が天を支配しておられるように、地上でもあなたの御心によって支配されるようにしてください。

 私たちの日々の糧(食糧や必要な物)を与えて今日も私たちを養ってください。

 私たちは、私たちに罪を犯す者を主の命令に従って赦します。それゆえ、主よ、私たちの罪をお赦しください。

 私たちは弱い者です。試みに負けて、足元がすくわれないようにお守りください。どうか、試みにあわせず、私たちを、悪(悪いもの)より救い出してください。

 永遠の国と、永遠の国の主権と、永遠の国を統べ治められる栄光とは、とこしえに、まことの父であられるあなた天のお父様(生ける神)のものだからです。嘘偽りなく真実を申し上げます。」

 

 この「主の祈り」の中に、「御国を来たらせたまえ。(あなたが治められる御国をこの地上に来たらせてください。)」という祈りがあります。

 「主の祈り」を祈るとき、私たちは、知らずして、神の御国が地上に建てられることを告白し、神の御国を待ち望んでいたのです。

 

 それは、いつでしょう?主キリストが、再び、イスラエルに来られる時です。死から復活され永遠に生きておられるキリスト・イエスが、イスラエルの王として神の都エルサレムの王座に着座されます。

 

 「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。

 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。

 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。

 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。

 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。

 主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。」(ゼカリヤ14:4-9)

 

 ゼカリヤは、イエス・キリストよりも五百年ほど前の時代の預言者です。預言者ゼカリヤは、ユダヤ人の間を歩まれたイエス・キリストを見てはいないけれども、世の終わりに来られる「私の神、主。」として、復活のキリストを知っていました。

 

 復活の主キリストがオリーブ山に立たれると、地形は大きく変動します。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、大きな谷となるようです。

 主が来られると、世界の気候も変わります。光も、寒さも、霜もなくなり。昼も夜もないただ一つの日となる(一日のようになる)のです。

 

 エルサレムに御座が設けられて、御座からは生ける水の川が流れ、その水は海へと流れて行きます。雨が少なくて乾燥している現在のイスラエルが、いつも水に潤された地となるのです。

 

  エゼキエルも預言しています。

 「この川が流れて行くところはどこででも、そこに群がるあらゆる生物が生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。

 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。」(エゼキエル47:9、10)

 

 塩分濃度が高くて生物が生息できない死海に、その川の水が入ると、多くの種類の数多くの魚が住む所となり、漁師が漁をすることが預言されています。

 

 すべての聖徒たちも主とともに来ます。死者の中から復活したユダヤ人たちも、キリストを主とする異邦人たちも主とともにイスラエルに入り、ユダヤ人の兄弟となり、イスラエルの国民とされます。

 

 都の中には神殿はなく、万物の支配者である、神であられる主と、子羊キリストとが都の神殿です。神の栄光が都を照らすので、太陽も月もいりません。そこには夜がありません。

 神と子羊キリストとの御座から出て、水晶のように光るいのちの水の川が、都の大通りの中央を流れています。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができ、その木の葉は諸国の民を癒します。(黙示録21:22-22:2)

 

 すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都に入れません。子羊キリストの「いのちの書」に名前が置いてある者だけが、入ることができるのです。

 

 「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うためにエルサレムに上って来る、」(ゼカリヤ14:16)

 

 神とともに着座される王は、かつて、十字架で贖いの血を流された子羊イエスであり、死から甦って天の神の御座の右に着座しておられたキリストです。

 主は地のすべての王となられます。その日には、アブラハムの名も、モーセの名も、ダビデの名も、祭司の名も、預言者の名も、使徒の名も、ラビの名も、教皇の名も、牧師の名も、聞くことはありません。主イエス・キリストの御名が、従うべきただ一つの名となります。主はただひとりです。

 

 王は、神がアブラハムに約束された領土(エジプトの川からユーフラテス川まで)を、イスラエルの十二支族に与えられます。イスラエルの十二支族にそれぞれの相続地を割り当てられます。長子のヨセフ族には、二つの分(エフライム族とマナセ族)が与えられます。

 

 異邦人でキリストの民となった人々は、在留異国人でもなく、寄留者でもなく、イスラエルと同じ国民、兄弟となります。彼らは、在留している氏族の中で、その相続地が与えられます。

 

 「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。」(イザヤ11:6-8)

 

 地上にキリストが来られると、聖書のことばはことごとく成就します。エデンの園のように、穏やかで、平和な世となります。害を加えるものはなく、損なうものはありません。

 

 キリストが地上のすべての王となられ、神の子どもたちの国が建てられます。この神の国が建てられることを、被造物も、切実な思いで待ち望んでいます。

 

 キリストを受け入れ罪を悔い改めて、キリストの再臨を待ち望む、新しく創造された人、すなわち、神の子どもたちの現われることは、被造物すべての望みです。

 

 地上に神の国が建てられるならば、被造物も殺しや争い、破壊や破滅から解放されます。そして、神の子どもたちに賜る祝福と光と自由の中に入れられるのです。

 

 地球はうめいています。それは滅びのためではなく、神が約束しておられる新しいいのちと光の世を迎えるために、産みの苦しみをしています。

 死者の中から生まれたキリストのように、また、御霊によって生まれた神の子どもたちのように、地球は、死と滅びの定めから生まれる日を、切実な思いで待ち望んでいるのです。