ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

夕があり朝があった

 

 「夕があり、朝があった。第一日。」(創世記1:5)

 神の創造における一日は、夕から始まって、朝が来て一日を終えるようです。

 人の一日は、朝が来て一日が始まり、夜になって一日を終えます。神の一日と、人の一日の始まりと終わりは、逆転しています。

 

 民族的契約を結び、神の民とされたイスラエルは、神の法則に従います。ユダヤ人の一日は、夕方(日没)から始まり、日没で終わります。

 

 神の創造の最初は、光でした。

 「光よ。あれ。」(創世記1:3)と仰せられた神のことばによって、闇に光が現われました。太陽でもなく、月でもなく、光を創造されたのです。

 神は、光を見てよしとされ、この光と闇を区別されました。光と闇は、同調することがありません。

 

 聖書では、光を神の象徴、闇を悪魔の象徴として、書かれています。

 

 神は、闇に光を現わされたように、闇の世に真理の光(神の御子イエス・キリスト)を現わされました。

 

 闇に光を現わされたのは、天から落ちた神の子ら(堕天使たち)に救いを知らせるためでした。

 闇の世に真理の光を現わされたのは、罪に落ちた人々(罪人)に御救いを知らせるためでした。

 

 神は、闇(天から落ちたもの)の中に、光を与えられました。そして、その後、救いのためのものを、すべて闇の中に創造されたのです。

 漆黒の宇宙の中にいのちの星(地球)と、地球を取り巻く、太陽、月、星々を造り、生かす環境を整えて、生きものを造られました。すでに存在していた神の子(堕天使)たちの救いのためでした。

 

 すべてのものを支配させるために、神は、土の塵から人を造られました。堕天使の悔い改めが本物かどうか、試みるためには、塵から取られた卑しい「人」の創造が必要でした。

 悔い改めて心入れ替える者は、塵から造られた人の支配にへりくだります。悔い改めても高慢な心の者は、塵の人を蔑み、人の支配下に置かれることを拒みます。

 

 悪魔を憎み、神に助けを求める堕天使たちを憐れまれる神です。天から落ちた堕天使は、聖とならなければなりません。彼らの心から、背きを取り除き、服従する従順な者とするため、神の用意された試みは、「人」です。

 

 人の支配にへりくだり、神に感謝と賛美を献げる者に、神はいのちの木の実を与えられます。しかし、人の支配を憎み心に苦みを持つ者は、人に逆らい、人よりも賢い者になろうとして善悪の知識の木の実を食べます。

 

 ところが、人が神の子(堕天使)の試みとなる前に、人は、蛇(悪魔の言葉)に騙されて、罪に落ちました。神のことばから外れた人は、神とひとつでなくなり、エデンの園から追放されました。

 

 「人」は、神が神の子らの心を調べ、正しい心の者を天に帰すための重要な支配者です。神は、この重大な役割を持つ被造物、「人」を、正しい任務に就かせるために、神のひとり子を遣わして、回復させられました。神は、女から生まれる人の子(神のひとり子)を、罪の贖いの神の子羊とし、人を罪から解放して、人とすべてのものの支配者として、人の子に支配の権威を与えられました。人の子(キリスト・イエス)は、すべてのものの主権者です。

 

 神が立てられた主権者(神の子羊キリスト)に聞き従う従順な人々を、支配者の任務に就かせられます。キリストに聞き従う従順な人々は、信仰の勝利者であり、永遠のいのちを得る者です。そして、イスラエルの王(神の子羊キリスト)は、従順な人々を支配者に立てて、千年王国で、エデンの園を回復させられます。

 

 闇に光を現わされた神は、闇に捕らえられた罪人に真理の光(神の御子イエス・キリスト)を照らし、光を愛する者たちを、光の子とされます。

 

 神の創造物は、悪魔によって闇に閉じ込められています。被造物の思いは暗くなり、光(神のいのち)を失って、生老病死の悩みを抱えてうめいています。

 しかし、神は、闇(この世)に真理の光(神の御子イエス・キリスト)を現わして解放を与え、被造物を光の子とされるのです。

 

 罪を認め罪に嘆く者、病める者、貧しい者に真理の光が輝くと、彼らの目が開かれ、神は、神の御子イエスを「我が主キリスト」と告白する者に、信仰と希望と愛を与えられます。

 

 神の一日は、闇から光に進みます。夕があり朝があるのです。罪に捕らわれていた者が、神の子羊イエス・キリストの血で解放され自由の身となると、光を愛する者になります。

 

 朝があって夕となる一日を過ごす者は、神の国にふさわしい者ではありません。

 正しい道を歩む自分を義とし神に栄光を帰さない者は、闇を迎えます。キリストの血で贖われ、罪の縄目から解放され自由の身となりながら、闇を愛する者は、再び、闇に捕らえられます。他人の罪に関わりを持つならば、光に影が差します。陰のある光は、真理の光ではありません。

 

 今、闇にいることは恥ずかしいことではありません。真理の光を得て、光の子とされる希望があります。すべての人は罪人です。生まれながらの罪人です。罪人である証拠に、すべての人は死にます。

 

 最初の人アダムは、光の中に生まれ、闇に落ちました。「夕があり朝があった。」と仰せられる神の時間の流れに反するものです。闇と光があべこべです。神の創造の流れから外れています。このように、神の創造の流れから外れたものが、罪なのです。

 

 神は、人の子(神の子羊キリスト)によって人を回復し、人に新しい創造を施されます。人は、人の子(キリスト)の御救いのわざと御霊によって、新しく神の子どもに創造されます。

 

 神は、支配権を人の子(キリスト)にお与えになって、「イスラエルの王」とされます。イスラエルの王は、千年の間、世界を統べ治められます。

 イスラエルの王の国民は、光の子に回復した新しい人々です。

 神は、人の回復(死から甦り、聖なる光の子とされた)によって、エデンの園を回復し、いのちの木の実を食べる神の子(悔い改める堕天使の救い)を完成されます。

 

 「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗闇とに、どんな交わりがあるでしょう。

 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何の関わりがあるでしょう。

 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。」(コリント第二6:14-16)

 

 キリスト・イエスの血によって義とされ、キリストの生かす御霊により新しい創造を受けて「光の子」とされた人は、生ける神の宮として、生かす御霊のいのちの水(祝福を執り成す御霊の祈りと御霊の働き)を流していきましょう。光の子は、世の光なのです。

 

 「光は闇の中に輝いている。闇はこれ(光)に打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)