エルサレムは、「平和の町」、「平和の礎」という意味らしいです。
神は、御自分の都をエルサレムに定め、その御心は、エルサレムから移ることはありません。また、御自身の民をイスラエル(ユダヤ民族)に定められた主は、御自分の民から移ることはありません。
エルサレムは、神が住まわれる神の都であり、神御自身が平和を置かれる場所です。
平和とは、神と民との平和であり、神と世界との平和です。天と地が一つとなる平和です。
現状は、世界を揺さぶる争いの根源のようなエルサレムですが、神のことば(神のことばは真実です)によると、平和の町です。平和が、神の望まれる本当の姿です。
「平和の町に平和があるように祈りなさい。」ということが、「エルサレムの平和のために祈れ。」なのです。
神のことばは真実で、普遍です。それなのに、現実にはいつも争っているのはなぜでしょうか。
平和の町に、平和の王がおられないからです。神の仰せられる平和は、神との平和であり、人との平和であり、自己との平和です。
神との平和は、神だけが平和なのでしょうか。人との平和は自分だけが平和なのでしょうか。いいえ、双方が平和であることです。
自己との平和は誰が仲介者になってくれるのでしょうか。どうしたら、自分と和解できるのでしょうか。
神との平和は単純です。神のことば、神の秩序の中に入ればよいのです。神のことばを信じず、神のことばに背いていたことを悔い改めれば、神の用意された赦しを得させてくださいます。それは、神の子羊イエスの贖いの血の御力です。
あなたの罪のために神の子羊が用意されて、あなたの罪を赦すために神の子羊イエスが屠られ、キリスト(救い主)の贖いの血が流されたことを知らせてくださいます。
自分の罪の身代わりに、イエス・キリストが自分(私)の罪を背負って死んでくださったこと、自分の罪は、キリストの血の贖いによって神が赦してくださったことを信じ受け入れるとき、心は感謝と喜びに満ち溢れ、自分の重荷は軽くなり、魂に平安が訪れます。
罪を裁く神が、罪を赦してくださったのです。だれも訴えることはできません。罪の重荷から解放され、自由を味わいます。その自由の中に、まことの平和があるのです。
神と隔てる壁はないのです。それが、神との和解です。
人との争いがある場合、人との平和は、単純ではありません。和解を願っても双方が同じ思いを持たなければ、平和は成り立ちません。
神との場合は、神の赦しはすでに定まっているので、自分がそれに従うだけでよいのですが、人との場合は、赦しの基準がないのです。どちらも赦されなければならず、また、どちらも赦さなければならないのです。
しかし、神は、神に赦された者に、神に赦されたと同じように相手を赦しなさい、と仰せられます。神に従い、相手を赦すとき、相手の呪いを神が解いてくださいます。たとい、相手が自分を憎み続けていても、自分が赦すとき、神はその人を祝福し、ある時は、神御自身が立ち上がり、相手をさばいてくださいます。
使徒パウロは言います。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。
『復讐はわたし(神)のすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」(ローマ12:19)
神との平和の中にいれば、神が仲介者になってくださいます。そして、神の子どもという、新しいアイデンティティを受けるのです。
「正義と不法とに、どんな繋がりがあるでしょう。光と暗闇とに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアル(邪悪なもの、無価値なもの)とに、何の調和があるでしょう。キリスト信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。」(コリント第二6:14-16)
神は、神の民となった者に対して、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、邪悪な彼らと分離せよ。汚れたものに触れないようにせよ。」と仰せられます。
神の民は、神を憎む者、神に逆らう者、神に敵対する者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。それは、神との平和を乱すものだからです。
神の契約は真実であり、確かです。
神は、契約を結ばれた民イスラエルに仰せられます。
「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらね愛はあなた(イスラエル)から移らず、わたしの平和の契約は動かない。」(イザヤ54:10)
神とイスラエルとの平和の契約は動きません。神は、必ず、平和の礎エルサレムに平和の町を築かれます。それは、人間の知恵や人間の努力によるものではありません。
「権力によらず、能力によらず、わたし(神)の霊によって。」(ゼカリヤ4:6)と仰せられる万軍の主の熱心によって、成し遂げられます。
すでに、エルサレムには、信仰の礎が置かれています。神の子羊イエスが流されたキリストの贖いの血です。罪の赦しの血です。神との和解の血です。
神の契約と神の子羊イエスの贖いの血と、平和の王キリスト・イエスの信仰の基礎はすでに築かれています。
その信仰の礎の上に、御霊が生んだ新しい創造の人の信仰が積み上げられて、神の家が建て上げられたとき、平和の王が天から来られます。
平和の王は、争いの根源の悪魔と悪霊、悪魔の子らを断ち滅ぼす万軍の主キリスト・イエスです。
エルサレム(平和の町)に平和の王が入って来られます。
「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。その栄光の王とはだれか。
万軍の主。これぞ、栄光の王。」(詩篇24:7-10)
闇は逃げ去り、平和の王(神の子羊キリスト)がエルサレムに住まわれると、平和な新しい世界が始まるのです。
イスラエルから移ることのない、イスラエルの神、イスラエルを贖う主は、イスラエルの民、そして、ユダヤ人に仰せられます。
「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きな憐れみをもって、あなたを集める。
怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたを憐れむ。」(イザヤ54:7,8)