ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

報いがある苦しみ

 

 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光(天の御国の愛の交わり)の中に招き入れてくださった神御自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(ペテロ第一5:10)

 

 水(大洪水)の滅びの時代、ノアは箱舟の中にかくまわれました。四十日四十夜雨が降り続き、箱舟は水に浮き、大水に押し流されて、陸地のない大海を行き先知らずに漂いました。

 水は、百五十日間、地の上に増え続け、百五十日の終わりに減り始め、やがて、箱舟はアララテの山の上に留まりました。地が乾き切った時には、大雨が降り始めてから一年が経っていました。

 

 七十年かけて箱舟をつくったノアは、箱舟に入って一年の間、空を見ず、太陽も月も星も見ることなく、外の様子を知ることもなく、うす暗い箱舟の中で洪水の後の世界を想像することもできず、生ける神を恐れながら、暮らしていたことでしょう。

 

 イスラエルの敵であるアッシリアの首都ニネベに罪が満ちたとき、イスラエルの神は預言者のユダヤ人ヨナに、ニネベの滅びが止められるようにニネベへ行き、神のことばを預言するように命じられました。

 しかし、預言者ヨナは、神のことばに逆らい、神が命令されたニネベとは逆の方向を目指したので、海の深みに投げ込まれました。潮の流れがヨナを囲み、水はヨナの喉を絞めつけ、深淵はヨナを取り囲み、海草はヨナの頭に絡みつきました。主は大きな魚を備えて、ヨナを飲み込ませ、ヨナは三日三晩、大魚の腹の中にいました。

 神は、ヨナのいのちを(滅びの)穴から引き上げてくださいました。

 ヨナが腹の中から主に叫ぶと、主はヨナの声を聞いてくださいました。ヨナは感謝して神を賛美し、神の命令に従うことを誓い、誓いを果たしました。

 

 ノアは、新しい世界に入るために、七十年間の備えの期間と、一年の苦難の期間をくぐりました。

 ヨナは、神の働き(使命)を成し遂げるために、心の葛藤のすえの不従順と神の懲らしめに会って悔い改め神の赦しをくぐり、使命を成し遂げました。

 

 

 使徒パウロはユダヤ人たちから苦しめられました。

 神の霊に敵対する霊と戦うパウロは言います。

 「彼ら(迫害するユダヤ人)はへブル人ですか。私(パウロ)もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。

 彼ら(使徒たち)はキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなの(キリストのしもべ)です。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、鞭打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。

 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、偽兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(コリント第二11:22-27)

 

 使徒たちは、大祭司や律法学者や議員などの議会に立たせられました。

 「使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。

 そこで、使徒たちは、御名(主イエス・キリストの福音の宣教)のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。

 そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリスト(救い主)であることを宣べ伝え続けた。」(使徒5:40-42)

 

 聖霊の授けられた使徒たちは、主イエス・キリストの御名を宣べ伝えることが喜びでした。十字架の死まで神に聞き従われた主イエス・キリストの弟子として、主イエスと同じように、神に聞き従ってキリストの福音伝道ゆえに辱しめを受けたことを、「御名のために辱められるに値する者とされた。」と言って、神にキリストの足跡を辿る者と認知されたと喜ぶのでした。

 

 かつてパウロ(サウロ)は、ユダヤ教の最も厳格な派のパリサイ人であり、教会を荒らし、イエス・キリストを信じるユダヤ人の家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢にいれるほどに、イエス・キリストの弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃える者でした。サウロは、キリストに敵対する者だったのです。

 

 しかし、主は、パウロ(サウロ)を御自分の働きを担う器(主の器)として選んでおられました。主は、サウロに手を置いて祈るように命じサウロのもとに遣わした、主の弟子アナ二ヤに仰せられました。

 「行きなさい。あの人(パウロ)はわたし(主イエス・キリスト)の名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫(十部族)の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

 彼(パウロ)がわたしの名(イエス・キリスト)のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(使徒9:15,16)

 

 主が仰せられたように、パウロは苦しめられました。主のもの(キリストのしもべ)であるがゆえの苦しみです。

 主イエス・キリストは、悪魔を踏み砕く神の聖者でした。

 聖霊のバプテスマを受け、聖霊の宮とされた使徒たちは、師であるイエス・キリストに似た者とされることを誉れとしました。

 

 悪魔は、キリストに敵対しました。キリストはこの世のものではありません。この世のものは、神の御子イエス・キリストを憎み、殺意に燃えました。

 神の御子だから、みんながひれ伏すと考えるなら、それは大間違いです。闇の世は、聖なる者を憎みます。仲間ではないからです。闇は光を憎みます。完全に聖いこと、完全に正しいこと、そんなものは、罪人は望んでいません。

 

 「(真理の)光が世に来ているのに、人々は光(聖なる神)よりも闇(この世のもの)を愛した。その行ないが悪かった(罪の中にあった)からである。

 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(ヨハネ3:19,20)

 

 聖なるものを求めない闇の世に向かって福音は伝えられます。その中に、光を求める人々がいるからです。

 御霊に満たされた使徒たちの働きは、まさに、神の聖者であるがゆえに世の罪人たちに殺されたキリストのわざをしているのです。

 

 イエスは使徒たちに言われました。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたし(イエス・キリスト)を信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)

 

 イエスは死んで墓に入り、三日目に復活して、天に上られました。父のもとに帰ったイエスは、聖霊のバプテスマを授けるキリストとなられました。

 肉体のイエスは、聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威を持つ救い主でしたが、まだ、その栄光を受けておられませんでした。

 死から甦り弟子たちに現われた復活のキリストであっても、まだ、聖霊のバプテスマを授けることはできませんでした。

 

 天に上り、父なる神から主権と光栄と国が与えられました。神の子羊イエス・キリストは、とこしえのイスラエルの王としての栄誉を受けられたのです。そして、聖霊のバプテスマを授ける権威を受けられました。

 

 イエス・キリストは、地上におられる間は、聖霊のバプテスマを授けることはされませんでした。聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威は、肉に死んで、復活し、天に上って、得るものだったようです。

 

 しかし、聖霊のバプテスマを授けられた弟子たちは、地上に生きる肉体の人間であるのに(栄光のからだになっていないのに)、うちにおられる御霊によって、死んで復活して天に上って父なる神からいただくキリストの権威(聖霊のバプテスマを授ける権威)を与えられているのです。

 聖霊の器は、イエスとともに十字架につけられ、肉に死んで、死から復活し(御霊によって生まれ)、御父と御子イエスと御霊との交わりの中に入り、キリストと同じ、聖霊のバプテスマを授ける権威を受けるのです。

 

 キリストのしもべの苦しみは、天上のものであるがゆえの苦しみなのです。天上のものでなければ、この世の君(悪魔と悪霊ども)が立ち向かって来ることはありません。

 悪魔は、聖なる御霊を憎んでいます。御霊を憎む悪魔は、キリストを憎んで御子イエスにしたと同じようなことをするでしょう。

 

 世が敵対するならば、悪魔がその人のうちに御霊を認め、キリストのものであることを知っているからです。

 キリストのものが、この世に尊ばれ、神の聖なる者、良い者として評価されると思うのは誤解です。世にあざ笑われ、蔑まれ、足げにされるとき、霊の世界では、悪魔が自分を敵として見ていると思ってください。

 神の守りがないと嘆いたり、神の栄光を現わしていないと自分を責めることはやめましょう。それは、天に属するものであると、悪魔が恐れているからです。

 

 御霊を受けた後で、苦しみにあうならば、それは、キリストのしもべとしての工事がなされているのです。キリストも、痛みと苦しみと迫害の中で従順を学び、神に聞き従い神の栄光を現わされました。

 癒しや解放が神の栄光でしょうか。いいえ、天上の者であるがゆえの苦しみこそが、聖なる神の栄光なのです。神の敵である悪魔がうろたえているのです。神の御国が地上に来ているのを、悪魔は憎んでいるのです。

 

 生かす御霊がお与えになる生ける川の水を受けるために、神は、心のうちにダムを造られます。生ける水をためて流していくためです。

 しっかりしたダムを築くために、ダムにためた生ける水が流れ落ちても崩れない土台造りをされます。主への信頼を築かれるのです。ほかの人に仕えるためには、まず、自分自身が御霊に満たされなければなりません。生ける水を流すだけの管にはされません。奴隷ではなく、神の子どもとして召されたのです。まず、その人自身を潤されます。神を喜ぶことが力であり、また、神の喜びなのです。

 主のために働いているのに、結果が出ない、何も先に進んでいないように感じているときは、御霊が内側の工事をしておられるのかも知れません。

 

 「あなたがた(キリスト者)は、信仰により、神の御力(聖霊)によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救い(永遠のいのち)をいただくのです。

 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのとき(キリストが再臨されたとき)に称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(ペテロ第一1:5,6)