ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

わざわいの備えをしよう

 

 最近、気温も天候も不順で、大風、大雨、たつ巻、山火事、地震、雹が降ったり、自然環境が乱れ始めてますね。

 これは、人間が引き起こした光化学スモッグとか公害とは違います。人間の手の及ばないところで、地球環境が加速的に変化しています。もとをただせば人間が引き起こしたものですが、それは幾つかの世代の蓄積が、こらえ切れなくなって今があるわけです。地球が悲鳴を上げ始めていると気がついた時には、随分と進んでしまっていたのです。

 それ以前からこうなることを案じて警告してきた少数の人々の意見は権力に封印され、国民すべての知るところとなった今は、崩れ落ちるのを少しでも先に延ばすための応急処置に明け暮れるだけです。

 

 地震や台風など自然災害とともに歴史を積み重ねて来た日本列島。木造家屋の家事に悩まされた江戸。津波に町を奪われた海岸線。火山の噴火、地震や台風被害。

 火山の恩恵も受けつつ海に囲まれた島国日本では、自然との調和が乱れることに対して敏感であり、神の怒りを意識してきた民族です。神の怒りを鎮めることに、村あげて心を砕いてきました。

 

 科学が発展し、文明国家に名を連ねるようになると、科学的に分析し対策を練る日本人は、古の日本人が恐れて来た神の怒りを、無知な人々の迷信と片づけるようになってしまいました。

 こうして、神と人間とを別次元のものとして、神と人間との接点を排除してきたのです。苦しいときの神頼みで、精神的な窮地に陥ると神にすがりますが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる。」で、それがなくなると、人間界に戻ってしまいます。神に背を向けた日常に戻って行くのです。

 

 地震などの災害の備えのことをよく耳にするようになりました。備蓄の大切さを耳にして、必要最低限のものを備える人は多いと思います。

 聖書の箴言には、備えのある人の賢さが書かれています。

 「彼女(賢い妻)は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、合わせの着物(あたたかな防寒着)を着ているからだ。」(箴言31:21)

 

 賢い妻は、家の者(自分の囲いの中の人々)のために、寒さを想定してそれに備え、前もって起こり得ることに対処する知恵を用いてその備えをする者です。

 聖書では、そのような女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言います。

 「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている。」と。

 

 「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。

 しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」(箴言31:30)

 

 最も賢い備えは何でしょう。人間の間で起こることに備えることでしょうか。聖書は、その賢さの根底にあるものは、主への恐れだと言います。

 

 津波で家が流され、地震で家がつぶされたら、備蓄していた物もすべて失うことになります。しかし、備蓄していなかったから、餓死したとか、その後、生きてゆけなくなったというような話は聞きません。

 

 すべてのものを失っても、生きているならば、命が残ったことになります。

 神を恐れる人々が備えるものは、神への信仰なのです。神に繋がる者は、いのちを得ています。常日頃から、神の御前に立つ日のことを想定することは、とても大切なことです。

 全き聖であられる神の前に立つ時、自分は備えられているでしょうか。神の目を見ることができるでしょうか。それとも、神に禁じられていた善悪を知る知識の木の実を食べて、うしろめたい気持ちで神から身を隠したアダムとエバのようでしょうか。

 

 聖書を知る人々は、人には一度死ぬことと死後に裁きが必ずあることとを聞いています。それは、神が定めておられることだと教えられています。人間は自分の人生の責任を問われます。ひとりひとり、神の御前に立ち、申し開きしなければなりません。神からあずかったいのちをどのように使ったのか、また、そのいのちはどこに向かってどこに入るのか、光か闇か、いのちの清算を余儀なくされます。

 

 神なんていない、と信じている人にも、その時は訪れます。死んだらおしまい、何もないと考える人にも、その時は来ます。人間がどう思ったとしても、この地球、宇宙の主権は、これを創造された神にあるのです。人の魂の所有者も神なのです。人は、神が創られた被造物だからです。

 そのことを信じられなくても、最後に神の御前に立つときに、そうだったのかと、人々は初めて宇宙の理を知り、真実な主権者を悟るのです。

 

 もし災害で亡くなったとしても、その人の魂が信仰によって神と結びついていたらどうでしょうか。その人の魂は、永遠の安息に入ります。

 もし災害に生き残っても、その人の魂が神を恐れず、神から離れたままであるなら、地上に生き延びたにすぎません。その終わりは闇です。しかし、生き残ったいのちを感謝し、神をたたえ、自分の生き方を一新して生かしてくださる神とともに生きる決心をするならば、その人の終わりは、光です。

 

 ひとりの人間にわざわいは大きなことですが、地球の歴史で見るならば、どの時代にも、どの地域でも、どの民族にも、男にも女にも、おとなにも子どもにも、幾度も繰り返されて来たことなのです。

 

 文明が発達し、神を人間社会から締め出しても、起こります。文明が人間を生かしているのではなく、創造主であられ、裁き主であられる神が生かしておられるからです。

 月に逃げても、火星に逃げても、地球にいるのと同じです。宇宙の果てに行ったとしても、すべてのものは、神の御手の中にあるのです。

 

 これから、地球は、人間を振るい落とすかのように、荒々しくなることでしょう。人間の心を和ませ、安らがせた自然は、まるで、人間の敵であるかのように猛威を振るうことでしょう。

 天気予報は予測不能となります。夏が暑い、冬が寒いというのは常識ではなくなります。太陽は光るというのも常識ではなくなります。

 

 生き延びるための備えは、どうしたらよいのでしょうか。永遠のいのちを得ることです。永遠のいのちとは、肉体が死んでも、死から復活して、新しい御霊のからだで永遠に生きることです。

 永遠のいのちを得る者は、死を恐れる必要がありません。死んでも甦って生きるからです。

 創造主であり裁き主であられる神は、神が定められた死後の裁きに備えるために、永遠のいのちを与える救世主イエス・キリストを遣わされ、また、救世主イエス・キリストの御名を呼ぶ者たちに、助け主を遣わされています。

 助け主である真理の御霊(キリストの御霊)は、死んで滅んでいく魂をキリストの血によって贖い、神と和解して神に立ち返る新しい心を与え、神をほめたたえる新しいいのちを得させてくださいます。

 

 私たちが、この終わりの時代に備えなければならないことは、死んでも甦る永遠のいのちを得ることなのです。

 永遠のいのちを得る者は、死を恐れません。死は、光の世界に入る入口、私たちの主イエス・キリストと目と目を合わせ、口と口とで語り、キリストの御姿を見ることになるからです。