ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

使命を果たす

 

 地球上には多くの種類の生物がいます。それらすべてのものを支配する(正しく治める)ように命じられているのは人だけです。これらすべてのものはおひとりの神によって造られており、この創造主であられる神が人に命じられたのです。

 

 それぞれの種(しゅ)は、おのおのの種の社会を持っています。人間にはわからない、それぞれの社会の秩序があるようです。犬には犬の社会の特性があり、獅子には獅子の社会の特性があります。

 神は、人間以外の種(しゅ)に、すべてのものを支配するようにとは命じておられません。人は神に似せて造られています。それは、支配者に与えられた賜物です。神のような広い心がなければ、どうして自分の種(しゅ)以外のものに責任を持つことができましょうか。

 

 神は、人間社会だけではなく、自然環境やあらゆる生き物が生態系を保って心地よく生活し平和であることを望んでおられます。人に任せれば大丈夫と思われた神は、人を造り終えられると、すべてのもの(被造物)を御覧になって、「非常に良い。」と満足されました。

 

 人はエデンの園を耕し、すべてのものを支配する役割を担っていました。その当時の食物は、草や木の実などの植物でした。獅子やワニなども肉食ではなく、草食動物だったのです。すべての生き物の食べ物は、大地から生え出たものでした。それゆえ、神は、アダムに大地を耕すように命じられたのです。

 

 人がエデンの園を耕すのは、自分自身のためだけではありません。すべてのものの食物のためでした。食物がそれぞれの種(しゅ)に応じてすべての生き物に行き渡るように、人にはエデンの園の管理が任されていたのです。

 人は、一日一日ちょうど良い量を得て、すべてのものが満たされるように働きました。ある種(しゅ)が多くて無駄にしたり、ほかの種が少なくて乏しかったりしないように、人は、正しく配分したり、それぞれの種(しゅ)を正しく管理したのでしょう。

 

 すべての被造物は、人の存在を得て、正しい管理者に守られ、安心して過ごすことができました。人は、すべての被造物にとって、親のような存在でした。まるで、神が自然界に人となって降りて来て、地上に平安を置かれたようでした。

 

 すべての種(しゅ)は自分を主張せず、人の手に治められて、互いに害することがありませんでした。自然環境は、すべての生き物に優しかったのです。生き物たちは人の管理により、まるで、神の懐に抱かれているようでした。

 

 ところが、天地がひっくり返る大きな事件が起きました。天地万物が造られる以前から存在していた悪魔が人を惑わし、管理者としての資格を踏みにじり奪ったのです。

 人は、悪魔の存在をよく知りませんでした。おそらく、人は悪魔が神に敵対する者であることを知らなかったのでしょう。

 

 人は、すべてのものを支配する管理者です。そのように、神から仰せつかっているからです。それゆえ、管理者である人もまた、人の支配下にある被造物とともに、神に治められるものなのです。神の被造物である人は、すべてのものを御心のままに治められる神に、忠実な管理者であることが求められます。

 

 人は、管理者としての自分の働きをよりよくするために、神のような知識が得られるという善悪を知る知識の木の実に興味を持ちました。神に尋ねなくても、自分ひとりの判断で、神と同じ結果が得られるならば、管理者としての働きを効率よくすることができます。

 神に背くという気持ちなんて、これっぽっちもありません。神から命じられた働きをよりよく効率的に行い、神の御心にかなうように成し遂げられるならば、それに越したことはないでしょう。

 

 しかし、神は、人は管理者の働きを完璧に成し遂げることではなく、主を仰ぎ、すべての生き物のために愛をもって管理するために、神から愛を学び、神との交わりの中ですべてが成されることを良しとされていたのでした。知識ではなく、愛と交わりを、神は人に望んでおられたのです。

 

 人は管理者として、すべての被造物に責任を持つ者です。ほかの種(しゅ)には、そのような責任は課せられていません。猫が鳥のことを心配したり、猿が魚のことを思いやったり、獅子がウサギのために労することはしません。

 神は、人に支配するように命じられたのです。人は、すべての種(しゅ)に対して責任を負っているのです。

 

 責任を持つことで、人はそれぞれの被造物に目を向け、知ろうとします。そして、その愛によって人の中に知恵が働き、よりよいことを得ていくのです。神は、その愛の中に働かれるからです。

 

 しかし、人は悪魔に騙されて、管理者としての働きのために知識を求め(善悪を知る知識の木の実を食べ)、人の愛の中に働く神のわざを失ってしまいました。人は愛を知らない者のようになってしまったのです。

 神は、人を愛の対象として造られ、自然環境から学んで愛を育み、愛に成長し、神のひとり子の良き兄弟として、ひとり子に賜るはずでした。

 

 働きを成し遂げることに思いを向け、神の愛の交わりの中に留まらなかった人(アダム)は、すべての被造物の平和を保つどころか、自分自身の平和を失いました。

 いつの間にか、自分の使命が、主権者であられる神に取って代わっていたのです。生かしてくださる神を忘れ、自分が被造物を生かす者にならなければならないとしたのです。

 

 神のために働くことはとても大切なことです。しかし、神に対して熱心であったユダヤ教徒のサウロは、熱心にキリスト信者たちを迫害して捕縛し、神の御心を痛めていました。

 しかし、復活されたキリスト・イエスを光の中で見たサウロは、彼が迫害していたのは、主キリスト(神の子ナザレのイエス)であることを知りました。主が、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。」と言われたからです。

 その時、サウロは、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」と尋ねました。サウロの主人が、自分の信仰から、主キリストご自身に移し変えられたのです。この時、サウロの信仰は、神の土台に立ったのです。

 

 「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(詩篇127:1)

 

 良かれと思って神に熱心であったサウロは、神に覚えられることのないむなしい働きを熱心にしていました。

 しかし、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」と尋ねたとき、自分の熱心は去って、神御自身の前にひれ伏したのです。

 そして、神の御霊に聞き従うという新しい歩みを始めました。

 

 使命はひとりひとり異なります。ひとりひとり分け与えられている賜物が異なるからです。それは、神の御前にすわって神から受けるものです。

 ひとつの御霊が、おのおのに賜物と働きとを分け与えられ、そのすべてのものの働きが一つに組み合わされて完成するのです。主御自身に尋ねるならば、正しい道を教え、御霊がその行くべき道に導いてくださいます。

 

 「私(パウロ)はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。 

 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠(いのちの冠)を受けるためにそうするのです。

 ですから、私(パウロ)は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。(天の御国に目標を定めて走っているのです。)空を打つような拳闘もしていません。(敵である悪魔と戦っているのです。)

 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私(パウロ)がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になることのないためです。」(コリント第一9:23-27)

 

 パウロは知っていました。神に仕えていると思っていても、人間には自分が主人になってしまう弱さがあり、その道に迷い出てしまうと、神に覚えられないむなしい働きになってしまうことを。

 

 使命を果たす者は、アダムのように自分自身に必要な知識を求める者ではなく、サムエルのように、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」(サムエル第一3:10)と主に尋ねるのです。

 

 神を知るサムエルは言います。

 「主は御声に聞き従うことほどに、全焼の生贄(神の御心をなだめること)や、その他の生贄を喜ばれるだろうか。

 見よ。聞き従うことは、生贄(犠牲)にまさり、(神の御声に)耳を傾けることは、雄羊の脂肪(最上の献げ物)にまさる。」(サムエル第一15:22)

 

 神に聞き従うへりくだった心が、神の働きを担うのです。神の働きは、神の御霊とともにあり、神の使命は、御霊に聞き従う者たちによって果たされるのです。