ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

形骸化された聖書

 

 旧約聖書はユダヤ民族に与えられた神の律法です。全知全能の神(天の神)は、ユダヤ民族を御自身の祭司の民として造られました。

 もし、神の祭司の民が地上にいなければ、私たちは神のことばを知らなかったでしょう。もし、聖書がなければ、人類は世の初まりのことも世の終わりのことも知らなかったでしょう。

 

 創造主であられる天の神は、人を御自身に似せたものとして造られました。それゆえ、人は永遠を想う思いがあるのです。

 ほかの生き物、獣たちは、生きている間、眠り目を覚まし食べて飲んで一日を過ごし、また寝て起きる、このようにして一生を終えますが、人は生まれる以前のこと、また、死んだ後のことに思いを巡らせます。そして、何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、と問い続けます。

 

 人は生まれたときから、死が定められた罪人です。生まれつき、死を免れることのできない死刑囚なのです。私たちの心に悪が住みついているからです。妬みも怒りも憎しみも争いも、その悪の根がはびこった心から湧き出ます。

 

 神は、御自身に似せて造られた人が死ぬのを望まれません。人のうちには、神の栄光の輝き、いのちの輝きがなければなりません。神は、人をそのように造られたからです。

 

 神には創造の御力があります。神は、無から有を生じさせる方です。しかし、神に似せて造られた人は、物ではありません。神と交わる霊が備えられた特別な生きものなのです。ですから、物のように、悪くなったものを神の御手で造り直すことはされません。

 人には、知性と感情と意志とが備えられています。神のことばを理解する能力、神のみわざをほめたたえる感性、感謝する心と悔いる心が人には置かれているのです。

 それは、強制されてではなく、いやいやながらではなく、神に従って自分から進んで、自分の意志で、それをなすことを神は望んでおられます。

 

 悪が住みついている人は、聖なる神から遠く離れたものとなってしまいました。そして、神から離れたまま、終わりには肉体に死んで死者の国の滅びの死人となり、永遠の火の池で焼かれる定めなのです。

 

 神が人をこの世に生まれさせたのは、この地上で悪の宿った自分に気づかせて悪からの解放を求めさせ、人が罪に気づいて罪を悔い改めて、悪を望まない聖く正しい魂にきよめて、神の似姿に復活させることです。

 

 悪の棲みついた心は、どんなに善を望んでも、自分の願うような良い結果を生むことができません。良い心で始めたことも、欲が膨らむと、自分自身をも周囲をも罪に陥れます。良い心が良い心のままで良い実を結ぶことは稀なことです。

 

 神は御自分の民として選ばれたユダヤ民族(イスラエル)に、神の律法を与えられました。その律法によって人は、全知全能の神の聖なることを知るのです。

 神が神の民に要求されるのは、神を恐れることと、神の民にふさわしい聖なる民であること、そして、隣人を愛し、被造物を祝福することです。

 

 「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ19:2)

 神の民が聖なるものとなれば、ほかの民(異邦人)は神が聖なる方であることを悟ります。また、生けるまことの神(天の神)に近づくためには聖なる者でなければならないことを知り、神を畏れることでしょう。

 

 しかし、神に与えられた律法を守るのは、生まれつきの人間には不可能なことでした。たとい、神に選ばれた民族(イスラエル)であっても、特別な力があるわけではありません。神の御力によらなければ、神の義に到達することはできません。

 

 アダムから始まって今日に至るまで、キリストの血によらず、その信仰によって義とされ、死を味わうことなく天に上った人は、アダムの子セツの子孫エノク(ノアの先祖)と、ダビデ王の時代の後に預言者として活躍したエリヤのふたりだけです。

 神の民イスラエルが誕生してから、生きたまま天に受け入れられた義人は、預言者エリヤただひとりです。

 

 神の律法では、義とされないのです。

 「私は、内なる人(神に覚えられた者)としては、神の律法を(神に選ばれた者として)喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこ(肉の思いのとりこ)にしているのを見いだすのです。

 私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:22-24)

 

 罪ある生まれつきのままの人間は、律法では聖なる者になることができないことを神は知っておられました。

 それゆえ、人間にはできないことを、神は、神のひとり子によって成し遂げられました。すなわち、神のひとり子に肉体を造って人の子としてイスラエルに遣わし、世の罪を取り除く神の子羊として、神の祭司の民ユダヤ人に屠らせることでした。

 

 神には、死から神の子羊イエスを取り戻すことがおできになります。神の子羊イエスは、罪のない正しい人の子であり、神の基準に到達する義人でしたから、本来は死に値する方ではないのです。神の子羊イエス・キリストは、神の律法を完全に守られた全き人の子でした。

 

 神は、神の民イスラエルにお与えになった律法を神の子羊イエスによって完成させられました。ユダヤ民族から出たナザレのイエスは、ユダヤ民族の律法を完全に守り、完成されたユダヤ人として死なれました。

 イエス・キリストの罪状書きには、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」と書かれていました。ナザレのイエスは、ユダヤ民族が守らなければならない神の律法を完全に守り、ユダヤ人の王として、民の身代わりに死なれたのです。

 

 ひとりの人ナザレのイエス(ユダヤ人の王)の死は、イスラエルの国民全体(ユダヤ民族)が滅びることから守りました。神の子羊イエスの血によって、神は、国民全体を贖い、民の罪を取り除かれたのです。

 そして、神は、ユダヤ民族に、世の罪を取り除く神の子羊の贖いの血と神の赦し、また、死から復活された神の御子イエス・キリスト(救世主)の福音を世界中に宣べ伝えさせて、イスラエルを世界を救う祝福の民とする御計画でした。

 

 神のいのちは、聖書に息づいていました。しかし、律法を文字として捉え、人間の教えとして受け継いだユダヤ教のユダヤ人たちは、生ける神のひとり子イエス・キリストが来られているのに、彼を受け入れることができなくなっていました。彼ら(ユダヤ人たち)の霊は律法によって覆われており、思いは暗くなっていたからです。

 

 ユダヤ人たちが神の御子イエス・キリストの御名を拒否すると、神の憐れみは異邦人に向かいました。神の約束のない、人間の成り立ちも神も知らず、キリスト(救世主)が遣わされることも教えられていない異邦人に、啓示の光が照らされました。

 

 肉による古い契約(旧約聖書)しか知らないユダヤ人とは異なり、異邦人は、神の御子イエス・キリストによる新しい契約(新約聖書)を受ける者とされたのでした。

 

 神は、御子イエス・キリストによる新しい契約を与えることで、ユダヤ民族が守ってきた聖書(旧約聖書)を古いとされたのです。

 神の御救いは全世界に及びました。神の御救いは、罪を赦し永遠のいのちを得させる、信仰による契約です。その信仰は、神の御子イエス・キリストの御名にあり、聖霊(真理の御霊)にあります。

 

 神の御子イエスは、父(天地万物を造られた全能の神は、イエス・キリストの父であり、神の子どもたちの父です。)について、天の御国について、永遠のいのち(聖霊)について教え、「イエスは神の御子キリストである。」と告白する者に、父なる神を「アバ、父。」と呼ぶ御霊を与えることを約束されました。

 

 旧約聖書を聖書とするユダヤ民族は、律法を与えたモーセに望みを置きます。しかし、モーセは、彼らを救うことはできません。モーセは死から甦らなかったからです。

 新約聖書のイエス・キリストを主とするキリスト教会は、神の御子イエス・キリストに望みを置きます。しかし、自分自身が神を「アバ、父。」と呼ぶキリストの御霊を受けなければ、神の子どもとなることはできません。

 

 神の御子イエスは、彼(イエス・キリスト)を神として崇める人を求めておられるわけではありません。イエスは、父の栄光を望んでおられます。

 御霊を受けて、父を「アバ、父。」と呼ぶ神の子どもとなることを望んでおられます。イエス・キリストは、ご自身の兄弟(神の子どもたち)を喜ばれます。

 

 父はひとり子を、人の子としてイスラエルに遣わされました。神の子羊イエスは、ご自分のいのちをささげ、罪の贖いを成し遂げて死なれました。神は、贖いのわざを完了された神の子羊イエスを、聖霊によって死から復活させられました。

 死から復活したイエス・キリストは、御霊によって生まれた者の初子となられました。肉の人が死に御霊によって生まれた神の子どもの長子です。神の新しい創造です。

 

 神は、死と死後の裁きが定められている人間に、死から甦る復活のからだと永遠のいのちを与えるために、キリスト(救世主)を遣わされたのです。

 

 神は、キリストに聖霊のバプテスマを授ける権威をお与えになりました。キリストは、神の子羊イエスを信じる人々に、真理の御霊を授けられます。真理の御霊を受けた人々は、御霊によって神の子どもに造り変えられます。キリストに似た者に造り変えられるのです。神にへりくだり、聖なる神を仰ぎ、愛と平安と喜びに満ちた、新しい人を創造されます。

 

 しかし、キリスト教会は、聖書を神とします。文字に仕えるのです。ユダヤ教と同じ過ちを犯しています。聖書の知識を持ちながら、霊なる神を悟りません。

 ユダヤ人たちが、神の栄光を現わす人のかたちをした神の御子イエス・キリストを信じることができなかったように、キリスト教会は、生ける神の栄光を現わす御霊のことを知ろうとしません。

 

 聖書を信じながら、今も働いておられる目に見えない霊なる生ける神を体験しようとはしないのです。

 目に見えないことはわからないものであるかのように、御霊の働きを悪霊の働きであるかのように怪しむのです。

 

 聖書を知らない人(神道)のほうが、神の御声を聞き、神の示しを受け取っているではありませんか。